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基地ログ!@ブログ名、変えました!

小さい頃から考えてた基地作り。アメリカで始めました!セカイに作る基地の活動ログ。

空が落ちる 〜 ドラマへようこそ!

アメリカの新しい大統領、トランプ氏への抗議デモが各地で起こっている。

先週の日曜日のロサンゼルスのダウンタウンでのデモも凄かった。

でも、私は行かなかった。いや、行けなかった。

 

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(Smoky Hallowのフォトスタジオの壁) 

 

行かなかった。やることがあったから。

いや、正確には、やることがなくても、行けなかった。

それは、100%、あの日を思い出してしまうトリガーになるからだ。

 

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(1985年5月1日から6月4日に日本に戻るまでをメモしたノート) 

 

 

1985年5月1日。

メーデーのデモ隊が、私とパトが住んでいたアパートの横、

新聞街のBucareli 通りを行進していた。

Morelos 通りとBucareli 通りの角にあるアパートの入り口で、

私に追い出されたパトは、自分の荷物を持って、タクシーを待っていた。

 

事件は、その場から始まった。

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(マンハッタンビーチの桟橋) 

 

ブログを始めるために。

新しいビジネスを始めるために。

ウエブサイトを作るために。

自分史のアドバイザーになったから。

プロフィールが必要だから。

 

私が、自分史を書かなければならない理由はいくつもある。

 

それなのに、書けなかった理由は、この1985年5月1日。

 

それは、思い出すのが辛い作業で。

 

 せっかく、日本を出るまでを一挙に今日書けたのに、

ここで、もう一時間も止まってる。

 

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(フリーウエイ110と105のジャンクション@ロサンゼルス) 

 

 事実だけを述べるなら、

このデモに巻き込まれて、パトは逮捕されてしまった。

当時、パトの生まれた国チリは、ピノチェットの独裁軍事政権で、

美術の教師の父のいるパトの一家は、メキシコに亡命した。

不当逮捕されたパトの身柄は、留置所に拘束された。

 その同じ留置所に、そのあと、私も入ることになる。

テポストランという、シティから一時間ほどの村で、

全く違う事件に巻き込まれ、パスポート不所持ということで、留置所に入れられた。

そして、同じ場所で捕まった知人に、パトが同じ場所にいることを聞かされた。

 

結果、私は、日本大使館に助けを求めに行った知人に助けられ、

3日で留置所を出る。

 

パトは、カナダへ難民として、国外追放されたと聞く。

 もう30年以上も前のこと。

それっきり会ってない。

 

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どこだか忘れた、この写真。

私が、テポストランで私服警官に、パスポート不携帯で捕まり、

そのテポストランから、近くの大きな町、クエルナバカに移され、

そのあと、メキシコシティに、パトカーで向かっている時の空に似てる。

 

空が落ちるなんて、誰も考えない。

全く予期せぬことが起きる。

天から不幸が落ちてくる。

 

空が落ち、

突然、立っていた地面が揺れ、

天地がひっくり返り、

何もかもが信じられなくなる。

 

 それまで、毎日、挨拶していた近所のポリス、

近くの新聞社で働いているセキュリティガード、

制服を着た人たちが、みんな敵に見え始める。

 

 パトが逮捕されて、その居場所を探している時に、

私は同じ言葉を、スペイン語で、何十回と繰り返した。

 おかげで、その後、久しぶりに会った友達に、

スペイン語、うまくなったね、と言われる。

 

必要があれば、コミュニケーション能力は磨かれる。

冷静に状況を説明しようと試みるが、

途中から感情が抑えきれなくなって、

終いには、相手に怒鳴っているなんてことも多々あった。

 

まるでお芝居のようなシチュエーションの中で、

私は、見事に昼メロの女優だった。

あんだけの感情を込めて、しゃべり続けたことは、

後にも先にも、あの時しかない。

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( Smoky Hallowの壁)

 

一旦、探すのをパトの家族に任せ、自分の生活に戻ろうとした。

ちょうど、テポストランという村で、まりこさんが出産したところだった。

手伝いに行くために、私はシティを離れる。

 

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(ティファナ近くの魚市場) 

 

日曜日、テポストランの町の中心に立つ市場は、観光客や地元の人たちで賑わう。

 

テポストランには、多くの外国人が住んでいて、

その中には、この中心地で、レストランなどのビジネスをしている人もいる。

 

CAFE LUNAもそのひとつで、

スイス人の女性が経営している、外国人の居住者たちに人気のカフェだ。

 

その日、まりこさんに頼まれた買い物の途中で、

私は、LUNAで昼食を取る。

 

食事を終えて、コーヒーを飲んでいる時、

にわかに入り口付近が騒々しくなった。

 

人混みを抜けて、

ひとりの小太りのメキシコ人の男が、こちらに歩いてくる。

 

「Pasaporte, por favor. パスポートを見せてください」

は? 持ってきてないよ、買い物だけなのに。

「では、こちらに」

男は、私の他、周りにいた外国人たちを、表に停めてあるバンへと連行した。

 

多くの友達が同じ時に捕まり、何人かは、実際、自分の国へ送られた。

あとでわかったことだが、

この事件は、CAFEのオーナーとローカルの実力者の間での諍いが元で

テポストランにいる外国人を占めだそうとしたその男が、

クエルナバカの警察に、

不法滞在の外国人がいると通報して起こったことだったらしい。

 

空が落ちて、

私の世界は、怖いものだらけになった。

 

留置所の部屋、一晩中つきっぱなしの裸電球の下で、

Welcome to Mexico、これからがお楽しみ、と誰かがつぶやいた気がした。

「怖いもの、なくなるわよ」と姐さんは止めた。〜脱出先はメキシコ〜

「若い娘がメキシコなんて行っちゃうの、どうかしらね。」

と、クレちゃんが、ボブの黒髪の間から、クリクリとした目を光らせて言う。

 

 私は、まずメキシコに行くと決めた。

 そして、メキシコに住んでいた、母の友人のクレちゃんのとこに、相談に行った。

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じゃ、何でクレちゃん、行ったのよ?

 

「私は知らなかったからよ。」

 

岩国基地の近くで育ったクレちゃんは、英語も得意で、確か化粧品会社の仕事で、

世界中を回っていた。

 

何を思ったか、メキシコのタスコに行くと決めて、何年かそこに住んだ。

 

「家に帰ったらね、死体が転がってるの。びっくりしちゃうわよね!」

クレちゃんの話は、面白かった。とても、怖がってるように思えない。

「ね。怖いもの、なくなっちゃいそうでしょ?」

クリクリの目が笑ってる。

「怖いものがない女なんて、嫌がられるんだから」

私は、メキシコに行くことにする。

 

実は、私の最終目的地は、メキシコではなく、スペインのマラガだった。

マラガで絵の勉強をしようと、手続きを始めていた。

 

そんな時、メキシコから手紙が来る。

まりこさんからだ。

インターネットなんてない時代。

よく手紙なんかで、やりとりしてたと今だから思う。

 

「ひろみちゃん、スペイン行くの?メキシコ、寄っていかない?

 私のカメラ、持ってきてほしいのよ」

 

まりこさんは、私より4つ上で、同級生のお姉さんだった。

3浪してまで、芸大に入ったのに、1年で、メキシコ人と結婚して、中退。

彼女が芸大の、今はなき上石神井の芸大寮にいる時、よく遊びに行った。

 

まりこさんとのメキシコの日々を、私は、いつか文章に書く日が来るかもしれない。

そう思っていたが、今、キーボードを叩きながら、

「まだ書けない」と思う。

 

なんでだろう?

 

プライバシーの問題とか、出せない名前があるとか。

 

でも、一番の理由は、私が今、あの頃の自分の感性で、生きてないからだ。

 

彼女は、紙一重のアーティストで、

それに振り回された私も、その頃は、アートの道を何らかの形で歩むと思ってた。

 

研ぎ澄まされた神経は、時には、狂気のように、

社会的には、ナンセンスで、荒唐無稽な行動を起こさせる。

そんな日々も、メキシコにいると、そのカオスの中で溶けてしまう。

 

あの日々を振り返るには、私は、そこから離れ過ぎてしまっていて、

その意味が多分、解読できない気がする。

 

一つだけ、書けることは、彼女と過ごした日々のおかげで、

確かに、怖いものが、だんだんなくなっていった。

 

ほぼ無一文で、 ユカタン半島までヒッチハイクして行ったり。

内戦中の中米を一人で旅行したり。

ユダヤ人の医師と一緒に、戦争中の軍部の司令官に会いに行ったり。

そこから、キューバに渡って、

この間、亡くなったフィデル・カストロに偶然会ったり。

 

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うーん。書きながら、思った。

 

なんて、無謀なやつ。

何かあったら、日本で「自己責任」とか言われるパターンだわ。

22歳の時だ。

 

自分の歴史を辿りながら、私は、親の目で自分を見る。

 

うちの娘たちが、22歳の時、こんなことをしてたらと思うと、

こまるよね、ほんと、親として。

 

怖くて、体が、今、一瞬、硬直したよ。笑

 

結局、私は、スペインに行くことなく、まりこさんのいるメキシコに残る。

 

「征服した国より、征服された国の方が面白いよ」

 

彼女は、私の何かをその時点で、征服した。

 

そして、留まったメキシコで、私は人生最大の洗礼を受ける。

 

 

 

チンチロリンと崖っぷち 〜関西の日々〜

チンチロリーン

 

お椀の中で、サイコロが踊る。

 

私をここに連れてきたタクシーのおっちゃんが、サイコロを転がすのを眺める。

 

「運が悪かったなぁ。まあ、しゃあない。

 逃げたもん、追っかけていっても、あんまりええ事はないわ」

 

 自転車の放浪が終わり、奈良の生駒の山上で、別荘の管理人をしていた時に、

真夜中のタクシーの洗車のバイトというのをしたことがある。

 

 時給が良かった。

 管理人以外に、週2日のその会社の出版部への出勤と言うのがあって、

 その時間以外に確実にできる仕事は、夜中しかなかった。 

 

 別荘は、生駒山上遊園地のすぐ下にあった。

 ケーブルを二つ乗り継いで行く山の上から、最終で、下界に降りていく。

 

 近鉄で鶴橋まで出て、JRで京橋まで行く。

 椿本チェーンの工場の近くまで、最終のバスに間に合えばいいが、

 ほとんど間に合わないので、最初から歩く気で、ウォークマンを用意する。

 

 ビリー・ジョエルや、サイモン&ガーファンクルや、Earth Wind & Fireや

 録音してたのは、ほとんど洋楽だったと思う。

 

 ちょうど一本終わる頃に、洗車場に着く。 

 

 洗車場は夜中にオープンする。

 タクシーが仕事が終わって、帰る前に、車を洗いに来る。

 待ってる間に、同じ経営者がやってるラーメン屋で待つ。

 そのラーメンがおいしかった。

 雇われマネージャーの徳さん夫婦がやってた。

 

 いろいろあって、数ヶ月で辞めた。

 

 少しして、バイト代をもらいに行こうと、いつものように歩き始める。

 歩いているところを、タクシーの運転手で、常連のおっちゃんに呼び止められる。

 

 「姉ちゃん、どこ、いくんや?」

 「徳さんとこに、最後のバイト代もらいに」

 「あそこ、夜逃げしたで」

 

 エェェ〜〜!

 

 雇い主の一家は、夜逃げしていた。

 

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  まだまだ40歳くらいの夫婦で、子供も3人いた。

 お父さんは、頭も良くて、会社に勤めていた頃は、労働組合のリーダーもやってたような人だったらしいが、ギャンブルが好きで、そのために、一度は、一家心中をしようと、子供達に、よそゆきの服を着せて、ガス自殺しようとしたと、お母さんが話していた。

 

 「服着せてたらな、一番下の娘が、

  行きたくない、って。どこにも行きたくないって、ゆうねん。

  あー、気づかれたな、って思うて、そん時はやめた。」

 

チンチロリーン

 

 あれから、あの一家は、ちゃんと生き続けただろうか?

 東尋坊とかで自殺とかしてないだろうか?

 

 その頃、一番行きたい場所が東尋坊だった。

 

 同級生の友達は、みんな、大学行ったり、仕事始めたり、

 新しい居場所を持ち始めた頃、

 私は、どこにも所属していなかった。

 

 会社や仕事はあった。

 住む場所もあった。

 でも、最初の日に、満員電車の中で、気付いた。

 自分が、この生活を選ばないこと。

 よって、自分がそこに所属する人間だという意識は持てなかった。

 

 自殺の名所の東尋坊に行きたかったのは、水仙を見たかったからだ。

 水仙は、私の一番好きな花。

 最初に油絵を教えてもらった時、描いた花だった。

 

 生きること、そのものを、ずっと考えたいと思ってた。

 知識よりも、処世術よりも。

 

 東尋坊に行ったら、何かヒントがあるとでも思っていたのかもしれない。

 

 チンチロリーン

 

 私を呼び止めたタクシーのおっちゃんは、

 

 「まあ、乗れや」

 

 と言って、別の洗車場へ連れて行き、そこで、チンチロリンをおごってくれた。

  なんとなく、ルールを教えてくれて、賭けをした。

 

 二千円勝った。

 

 「これで勘弁したり」

 

 チンチロリーン

 

 大阪の街、生駒の山、京都の隅々まで、よく歩いた。

 今は亡くなられた永六輔さんの講演の後、枚方から生駒まで歩いたこともあった。

 

 あの時のひとりの時間は、自転車での放浪の続きのように、

 私は、いつも風景の中にいた。

 

 チンチロリーン

 

 山上の別荘以外の拠点として、小さなアパートを生駒駅の近くに借りた。

 雑誌のノンノンのパリの特集にあったイラストマップを壁に貼ってたら、

 少しして、母がやってるサプリメントの仕事で、パリ行きの旅がもらえたので、

 代わりに行ってと言われて、行った。初の外国は19歳のパリだった。

 

 外国に出よう。

 

 そう決めたのは、小学生の頃だった。

 

 大きくなったら何になりたいか、考えてくるという宿題があった。

 母に話したら、「ガイコウカンとか、ええんじゃない?」という。

 

 学校に行って、

 「ガイコウカンになりたい」と言ったら、

 「ガイコウカン」って何?と聞かれた。

 

 答えられなかった。

 

チンチロリーン

 

 高校生の時までの日記は、その1年後、メキシコに行く前に、浜で燃やした。

 その時に付き合ったくれた友達の家が、今、私が田舎に帰った時の宿である。

 

 一つだけ覚えているのは、中学生の時、20歳の自分に手紙を書いたこと。

 

 「もし、あなたが生きていて、20歳になってたら」

 

 そんな文章だった。

 

 生き続けることに自信が持てなかったティーンエイジャーは、

 とりあえず、自分に生きてて欲しいと願いを託した。

 

 20歳どころか、もう半世紀、生きちゃったよ。笑

 しかも、子供までいて、これから、もう半世紀、生きようとしてる。

 

 チンチロリーン

 

 今でも、私はギャンブルはしない。

 自分の人生だけで十分だと思ってるから。

 

 そのリアルギャンブルと、数々の崖っぷちを越えて、今、ここにいる。

 たいして、状況が変わっているとは思えない。

 崖っぷちの高さとか、自分が身につけてる装備とか、

 そんなものがどんどん変わっていくだけで、

 先に進もうとする限り、いつだって、崖っぷちに立たされる時は来る。

 

 チンチロリーン

 

 ロサンゼルスに来て、私が崖っぷちに立たされた時、

 その自分を助けてくれたのは、いつも関西の人たちだった。

 

 何をしてくれた訳ではないが、その人たちが投げてくれた言葉に救われた。

 

 「かっぱちゃんな、人の口には戸は立てられへんねん。

  言わしときゃええねん。

  そんなのにな、振り回されても、誰も責任取ってくれるわけやないで。」

 

  関西弁の、あのイントネーションや言葉にある寛容性とエネルギー。

 

  そんだけで、関西ワールドの洗礼を受けた私は救われる。

  ヒアリングしかでけへんけどな。

  

  チンチロリーン

 

  おごってもらったチンチロリンで勝った2千円をもらって、

  また京橋まで送ってもらう。

 

  「元気でな!」

 

  「ありがとぉー」

 

  タクシーの運ちゃんたちにとっては、洗車屋のお姉ちゃん。

  別に、自分が誰であろうと関係ない。言う必要もない。  

  

  そういう出会いを、あの頃、たくさんした。

  自転車を降りた。

  もう「自転車で日本一周してる18歳の女の子」ではない。

 

名前のないこと。

タイトルを持たないこと。

どこにも属さないこと。

 

 その自由の中で、世界を眺めていた日々。

 

 チンチロリンとサイコロが歌う。

 

 名もなく、地位も、レールもない。

 

 それでも、時間は流れ、サイコロは、前に進む目を出し続け、

 着いたアメリカで、今日は雨音の中で、あの日を思い出す。

 

 徳さん一家、生きてて欲しいなあ。

 

 

   

  

  

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホームレスの翼〜18歳の自転車放浪

17歳で家出した。

向かった四国の新長谷寺では、住職さんが暖かく迎えてくれた。

人の親切が痛かった。でも、どうしても、生きたかった。自分を生きたかった。

その生き方がわからなくて、誰にも聞けなくて、駆け込んだお寺。

 

翌朝、住職さんが、こたつのある部屋に、私を呼んだ。

「ここに行ってきなさい」

紙に書いて、差し出された住所と連絡先。

「川之江学園」と書いてあった。

「園長先生には、話してあるから」

 

電車とバスを乗り継いで行ったそこは、重度障害を持つ子供たちの施設だった。

職員の方が、何も言わずに、笑顔だけで迎えてくれて、1日を過ごす。

たくさんの自閉症の子たちの中で、私は居場所を見つける。

誰にも邪魔されずに、自分でいる場所があった。

施設の中の空気は、別次元だった。

 

生きててもいい。このまま、生きてていい。

自分が何者かわからなくても、生き方がわからなくても、生きてていい。

 

達磨さんが、武帝に「お前は誰だ?」と聞かれて、「知らん」と答えた。

その答えを私もつぶやく。知らん。

 

住職さんから連絡を受けた母が、泣き腫らした目で迎えに来て、「おうち、出る!」と叫んで、何度も家を飛び出した娘の最初で最後の家出は3日で終わる。

 

 その後、とりあえず、申し込んでいた今でいうセンター試験を受け、東京芸大の油絵科も受け、予想通り落ちた。高校は卒業したが、卒業式に出たかどうかさえ記憶にない。

 

目の前には、地図もレールもない時間があった。

 

うちの自転車ギークの兄貴が、高校卒業した時に、世界一周したいと親に言って、反対されてたおかげか、四国への家出の効果か、私が自転車で日本一周したいと言った時、両親は何も言わなかった。日本ならまだいいかと思ったのか、どうせ、反対してもやるに違いないと思ったのか、もう今はいない両親には聞けないが、今、娘たちを持つ身になって、この人たちの懐の大きさ、見守っていてくれたことに、私は感謝してもしきれない。親の愛情というのは、こういうものなのだというのを、身をもって教えてくれた両親、今も、思い返す度に、教えられることがたくさんある。

 

自転車の溶接を勉強するために、神奈川県の職業訓練大学校に通っていた兄のところに、しばらく居候して、自転車を作ってもらう。赤いランドナー。前輪に二つのバッグとフロントバッグ、そして、寝袋を後ろにくくりつける。5月の終わり、私の旅は、兄貴がいた相模原から始まった。

  

1. 交差点で見つけたもの

 

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 写真は、ロサンゼルス空港の近くの我が家への家路、フリーウエイ105。

405から105へのカーブを曲がると、夕焼けが見えてくる。

 

この間、その夕焼け空に、翼のような雲。

 

「ペガサスの翼だ」

あの光景が蘇った。

www.youtube.com

 

(初めてYoutubeで見ましたが、すごい80年代ぶりですねw)

 

この歌を、私は、雨の降る中、自転車で走りながら、歌ってた。おぼつかない歌詞の記憶、サビのペガサスのとこばかりを繰り返す。

東京を出発してから、初めての本格的な雨は、ホームレスにはちょうどいいシャワーである。梅雨が始まる兆しの雨、濡れてもそんなに寒くない。濡れた路面も、いい具合に滑ってくれて、ペダルが軽い。気持ちいい。

 

 日光へ向かう途中、陸橋を超えて、降りたところに、交差点があった。水上という標識も見える。歌っていたせいで、道順が頭から消えていた。

 

 どっちへ行くんだっけ?

 

と、思ったところで、ハッとした。

 

 そうか。どっちに行ってもいいんだ。

 

瞬間、背中に翼が生えた。

選択という自由が、その一瞬、自分の手に落ちてきた。

 

自由は、そこにあった。自分の中にあった。

それを知らなかったのは、私だけだった。

 

雨の中で、走りながら、泣き笑いする自分がいた。

自由は、交差点にある。

 

2. 風景でいたい

 

 自転車の旅から戻ってきてから、東京に行った。

 岩国の母の友人のクレちゃんの家に、ちょっとお世話になる。

 ある日、クレちゃんが、

 「ねえ、ちょっと、その自転車の旅のこと、文章に書かない?」

 と聞いてきた。何かの雑誌に載せるらしかった。

 承諾して、書き始めた文はボツになった。

 クレちゃんが期待していたような内容じゃなかったらしい。

 

 その内容を、今、思い出して、あの時の自分が書こうとしてたことを思い出す。

 

 旅をしている間、「18歳で一人で日本一周している女の子」だった。

 時々、宿などで出会う人に「すごいねー」「勇気があるね」とか言われる。

 クレちゃんも、同じようなことを言った。

 

 「あなたは、その旅をしたことで、何かを証明してしまったのだから」って。

 だから、それにふさわしい文章を書いて欲しかったのだと思う。

 

 今、時が経って、その時の自分に、私は寄り添ってみる。

 自転車で旅をしたのは、誰かに自分を証明するためじゃなかったんだよね。

 私が私であり、世界の一部であり、その世界が私の一部であり、

 そういうのを、感じたかったんだ。

 

 人間には、名前がある。日々の生活の中でも、役割がある。

 旅していた時の私には、その名前が必要なかった。

 誰にでもなれた。何者でもなかった。

 

 私は風であり、その町を通り抜ける音であり、立ち止まって、時間を共有するお客であり、会話であり、日常の中にある風景の一部であった。名前のない、草花や石ころや、そんなものと同列でよかった。

 

 いつか自分も、どこかに定住して、名前やタイトルを持つかも知れない。

 でも、それは、自分が決めよう。多分、私は、そんなことを思ってた。 

 

 北海道で梅雨を逃れ、8月からまた本州の日本海岸を走り始めた頃。

 新潟の駅の近くの万代橋の公園のブランコで寝てたことがある。

 走りにもやっと慣れてきて、1日の走行距離が150キロから200キロの日が続いて、走ることが楽しくて、宿を探す時間も惜しくて、野宿した。

 

 朝起きたら、そのブランコの下に、ラジオが置かれていて、

 お年寄りが、私の方をみんな向いて、ラジオ体操をしてた。

 誰も何も言わずに、手足を動かしていた。

 

 「もしかしたら、透明人間になってる、私?」

 

 でも、そのお年寄りたちは、ラジオ体操が終わると、普通に話しかけてくれて、

 私を特別に扱わなかったんだよね。 

 

 私は、今、誰かの誰かになって、家出が成立しないくらい、自由な家族がいて、

 またいつか、道端の草花や、河原の石ころと、同じような存在に自分がなれる

 日が来るだろうかと思いながら、これを書いてる。

 

3. 天と地をつなぐ未来

 

 陸ちゃんに会ったのは、屈斜路湖の湖畔で開催されてた町のお祭りだった。

クレープを売ってた。眺めていたら、話しかけてきた。

 

 「手伝うか?」と言われたので、手伝った。

 

 「食べるか?」と聞かれたので、一緒にご飯を食べた。

 

 「車で寝るか?」と言うので、泊まった。

 

 山口組の人たちらしく、食事の時に、ハジキの話をしていた。

 陸ちゃんたちとは、北海道にいる間に、3回くらい会った。盛岡の人で、今は暴力だんだけど、一人は、盛岡の進学校の出身で、頭がいいんだと言ってた。

   確か、釧路で会って、そこから札幌に戻るというので、一緒にトラックに乗っていくことにした。最後に別れたのは、札幌のホテルのロビーだった。

 

 たった4ヶ月の旅だったけど、本当にいろんな人に会った。

 札幌のロビーで、陸ちゃんたちと別れる時に、私は予感した。

 

 世界の広さを。自分が、まだその入り口にしかいないことを。

 そして、自分は、この世界にいる多様な人たちと関わっていくということを。

 

 予感は、戦慄のようでもあり、まるで何かに挑む前の武者震いのようでもあり。

 

 その後、陸ちゃんとは、電話で2回くらい話した。

 ガンを患っていると言った。

 

 ロサンゼルスのミツワというマーケットで、イベントの仕事をしている時、

 陸ちゃんのことを知ってるという業者の人に出会った。

 

 「あぁ、あの東北の、クレープやってた人でしょう?

  亡くなられたって聞きましたよ。」

 

 カタギな18歳を拾ってくれたヤクザのおじさんは、今でも私の風景の中にいる。 

 

 結局、自転車での旅は、途中から膝の関節炎を患い、途切れ途切れになって、九州入りした後は、普通に残りの日本を旅した。

 

 その後、母の伝手で、生駒山の山頂近くの別荘の管理人と、その別荘を持ってる会社の出版部のお手伝いをすることになる。放浪に終止符を打つ。

 

 ここから、ディープな関西ワールドに突入することになろうとは、19歳になったばかりの私には予想できなかった。

 

 行きまっせ、関西は生駒!芸妓さんの町、宝山寺!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生まれた時から家出娘だった私が、本当に家を出るまで。

 ものごころついた時から、私は、「家を出る」と言ってた。

そう教えてくれたのは、戦前、母の両親が営んでいた呉服屋に、

母の子守として奉公できて、戦後、呉服屋がなくなってからも、我が家にいて、私たちの面倒を見てくれてたおばあちゃんだった。

 

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「わたし、おうち、でる!」ゆうてね、ひろちゃんが、シミーズ姿のまま、

タッタターって外に走って行くんよ。

 

おばあちゃんは、私のことを「ひろちゃん」と呼んでた。今、思うと、そう呼んでいたのは、おばあちゃんだけだ。

 

私の一番古い記憶は、このおばあちゃんによって作られている。

 

シミーズ姿の小さな私が、隣りの文房具屋と、その向こうの家の間の電信柱の影に隠れて、家の方を見ながら、誰かが探しに来るのを待っている光景が、確かに私の中にある。年の頃、3歳くらい。そんな子を放置できるくらい、田舎の町は平和だった。

 

母は、女学校時代に戦争を経験し、戦後、父親の営む呉服屋が破綻してから、東洋紡に勤め、家族と裏の畑を耕したりしていたが、「こんなことやっていてはいけない」と、美容師になると決めた。ちょうど母の姉の旦那さんが、三井に勤めていたこともあり、鎌倉の三井財閥のお屋敷に仲居さんとして入り、美容師の勉強をしに鎌倉に移り住んだ。

 

鎌倉から戻った母は、美容院を開業した。おばあちゃんは、戦後、結婚したが、身籠った子供を死産し、働けない夫を持って、路頭に迷っていたらしい。順序は、よくわからないが、お見合いで、小学校教師の父と結婚して、家庭と仕事を持っていた母は、おばあちゃんを、再び、我が家の乳母として、迎え入れた。

 

うちは、三人兄弟で、私には兄と弟がいる。

が、戸籍上、弟は三男となっている。私と兄の間に、一人、赤ちゃんの時に亡くなった男の子がいたからだ。その子は、浩明と名付けられた。次に生まれた私は、そのまま、その亡くなった兄の名前に美しいをつけて、浩美になる。手抜きな命名だと、名前の由来を聞かされた時に、少ながらずガッカリしたが、妄想癖のある子供は、この亡くなった兄の存在を、まるで双子の魂のように、いつも意識しながら過ごしていたのである。

 

この魂の兄の存在が、私の本当の家出の時に、かなり重要な役割を果たす。

 

幼稚園、小学校、中学校と、山歩きをしたり、バスや電車で、ふらふらと当てもなく、どこかの町に出かけたりと、放浪癖は、育てていたものの、家出することはなかった。もしかしたら、考えていたかもしれないけど、実行に移した形跡も、その記憶もないことから、その日々の放浪で、十分満足していたのだと推測する。

 

ほぼ天真爛漫を地で行ってた「ヒロちゃん」が、変化を起こし始めたのは、中学に入学してからだった。

部活はバスケットボール、成績もそこそこ良くて、担任の新田(しんでん)先生も大好きで、表向き、極めて普通の学校生活を送っていたはずの私に、お弁当を食べた後の午後の授業あたりから、右手が痺れるという症状が発生する。時には腹痛が伴い、保健室に行くこともあった。

 

その時は、原因がわからなくて、保健室の先生に言われるままに、病院に行く。これが初めての精神科で、ちょっと緊張する。

 

その時の病名をはっきり覚えてはいないが、多分、自律神経失調症か何かだったと思う。要するにストレスだ。

 

 2年生になってから、この症状は出なくなった代わりに、私は、リストカッターならぬ、手の甲をカッターで切り始める。

 

 何だか苦しくて、たまたま手を切って血を見たら、気持ちがスーッと収まるというのを経験してしまったのだ。その頃から、油絵を習いに行き始め、読み始めた本にも影響されたのだと思う。自分の血の色は、眺めれば眺めるほど、美しく、生きている証を視覚的に実感させてくれた。

 

 ある日、切り過ぎて、母親に見つかり、

「猫にひっかかれた」

 と、とんでも嘘をついた。今、母親になってみて、確信する。

 

 母、絶対に、それ、信じてなかったでしょー!

 

 いろいろあったが、中学生活は楽しかった。この頃から、一人で行動することも多くなり、例えば、移動教室の時、みんな仲のいい友達と一緒に教室を移るのに、私は一人だったり、トイレに行くのも一人だったり。まあ、今でも、それって、別に普通じゃんって思うんですけど(笑)日本って、ちょっと違うでしょ?

 

 授業抜け出して、山歩きを始めたのもこの頃で、一度見つかって、勝手についてきた奴らと校長室の前の廊下に正座させられたこともあった。

 

 進路についての担任の先生と保護者との面談で、地元の進学校である岩国高校への合格圏内の成績の私に、先生も両親も、てっきりそこを希望しているかと思っていたところに、「進学せずに、働きたい」「もし学校に行くなら定時制に行きたい」と伝えた。

 

 結局、父親も学校の教師だし、お父さんのためにも高校は行っておいた方がいい(今、書きながら、何でそんなことに納得したんだ、自分!と叫ぶ)という、よくわからない理由で、説き伏せられて、岩国高校に行くことになる。それはそれで、よかったが、今でも、あの時、もう少し粘って、定時制に行ってたら、私の人生は、もっと面白くなっていたと思う。残念。進路に関する唯一の後悔である。

 

 高校で、またバスケットボール部に入る。楽しい仲間がいて、部活も学校も、やっぱり楽しかった。部活は、掛け持ちも出来たので、美術部にも入り、写真愛好会にも席を置いていた。

 

 楽しかったけれども、自分の中で、何かがマグマのように、煮えたぎっていた。

 

 違う。違う。こうじゃない。

 飼い慣らされてはいけない。

 何で、みんな、黙って受験勉強してんだ?

 

その頃の日記は、メキシコに行く前に、うちの近くの浜で燃やしてしまったので、

実際、どんなことをほざいていたのか、今では正確にはわからない。

 

 多分、中学生の頃に、体がノーと言い続けたのが、心のノー!になり、ティーンエイジャーには、論理的には理解できなくて、そのマグマが突破口を探していたのかもしれない。

 

 高校三年、めちゃ盛り上がった体育祭が終わり、青春真っ盛りを体験中の真っ最中に、そのマグマが突破口を見つける。

 

 2学期の中間試験の時だった。

 

 何で、こんな勉強しなきゃいけないんだろう?

 大学、何で行かなきゃいけないんだろう?

 誰が決めたんだ?自分が決めるんじゃないのか?

 でも、この学校の、世の中の雰囲気は何だ?

 この流れに乗らなきゃ生きていけないのか?

 そうじゃない人だっていっぱいいるのに。

 

 もう一度。

 この時に、私が心の中でしていた自分との対話の内容は、記録にないので、明確ではないけど、多分、こんなもんだと思う。そして、その時、一つの声が、私の耳に入ってくる。

 

 「あっちの世界を知らなければならない」

 

え?え?え〜〜?

 

 誰、あんた? です。

 

 でも、妄想少女だった私は、その声の主を作り上げてしまいます。

 

 浩明だ。

 

その頃は、彼の存在をアキラと呼んでいたりするw。

浩明と浩美ですからね。

 

 あっちの世界って何よ?

 

 でも、この時、その「あっちの世界」がどんな世界であれ、今いるこの世界を別の角度から見るために、違うレイヤーに行かなければならないということを、当時17歳の私は理解した。

 

 私が取った行動は、翌日のテスト、それも、1年の時に担任だった先生の英語の試験で、一度書いた答案を全部消しゴムで消して、白紙で出すことだった。

 

 学校=システムをテストする。

 そんな傲慢な気持ちで出した白い答案用紙は、学校側に届けられた。

 

 八幡先生から、家に電話がかかってきて、私は両親に呼び出された。

 

 「何で、そんとなことをしたんね?」

 両親が揃って、私に詰問するというシーンは、おそらく小さな頃はあったかもしれないが、大きくなってからは、この時だけ。

 

 「何で学校行かんといけんの?」

 「何で進学せんといけんの?」

 

 その時の両親の凍った反応に、私は全てを理解する。

 

 あ、もう、この人たちに聞いてはいけないことなんだ、と。

 

 翌日から、両親と弟は、まだ試験中の私を置いて、父の実家の祝島に、法事で出かけることになっていた。私の様子を心配した母は、美容院のお手伝いのTさんに、後のことを頼んで家を後にする。

 

 両親からの答えを諦めた私は、その後、新たな決意をする。

 

 四国に行こう。

 あのお寺に行って、住職さんに会おう。

 あの人なら答えを知ってるかも知れない。

 

 私の初めての家出の決意。

 

 その夏に、瀬戸内海一周のツーリングをした時に泊まったユースホステル。

 

 新長谷寺

 

 当時は、まだ民泊もなく、若者の宿として、ユースホステルが広く利用されていた頃で、高校3年の夏、実家のある岩国から国道2号線を上って三原、尾道を通って、笠岡のユースホステルに泊まった記憶があります。そこから、岡山へ向かい、小豆島、高松、金毘羅さん、そして、四国最終日に泊まった愛媛のユースホステル新長谷寺。

 

 昔は、ユースホステルのペアレンツさんが、夕食後に、みんなを集めて、歓談やちょっとしたミーティングをするというのがあって、この新長谷寺では、住職さんがミーティングで、達磨さんと武帝の禅問答について教えてくれたのです。

 

達磨 - Wikipedia

 

この禅問答の全文を、実は、私は、今日、初めて見ました。(驚!)

 

この長い文を、新長谷寺の住職さんは、宿に泊まっていた若者たちに、分かりやすく、禅問答でもって問いかけてきたのです。

 

「名高い僧として、武帝に呼ばれた達磨さんに、武帝は、こんなことを尋ねはった」

 

 武帝:お前は誰だ?

 

「達磨さんは答えはった。二文字で」

 

 不 「 ? 」

 

「さて、この二つめの文字。わかる人はおるかな?」

 

 私は手を挙げた。倫理社会の教科書を、読み物として、授業の進み具合そっちのけで完読し、教科書に出てくる哲学者や宗教家の本を、片っ端から図書館で探して読んでいた私が、一番、好きだったのは、中国の老師や竹林の七賢人だった。仏教の無常観も馴染み深かった。答えは、おのずと出た。

 

「知る、という字ですか?」

 

住職さんの顔が、ゆっくりとほころぶ。

 

「そうや。知らん!って言いなさった」

 

この禅問答のミーティングのことを思い出すと、今でも、何か、気持ちが落ち着く。

 

どんなに高名な僧であろうと、どんなに成功していようと、自分が誰であろうと、何者でないと思っていようと、この答えに、私たちはいつでも戻ることが出来る。全ては空であるから。

 

学校をテストして、白紙で出して、学校から電話が来て、両親に問い詰めて、答えが出なくて、答えを探している時に、思い出したのが、このお寺の住職さんで、その理由が、「知らん!」という答えの禅問答だというのも、妙な話だ。

 

私の家出の決行日は、10月25日の藤生駅発の一番電車と決まった。

 

折しも、季節外れの台風で、祝島から柳井への定期船ことしおが欠航。

家族は、後1日は戻ってこない。三原から四国への便は出てるだろうかという不安はあったが、天気を見ると、台風がちょうど通過して、大丈夫そうな様子。

 

インターネットのない時代の家出は、いろんな意味で、予測能力を要した。

 

あー、そうだ。思い出した!

祝島に行かなかった理由は、その当時、新聞配達をしてたからだ。

新聞配達、家出する前にやめたか、そんなことまで、気をくばる余裕がなかったのか、とにかく、お金があったのは、その新聞配達のおかげで、どちらにしても、家出で、新聞配達を止めたのは間違いない。新聞屋のおばちゃんに謝りに行ったのは覚えている。

 

山陽本線の上り、朝早い電車には、大きな行商の荷物を持ったおばちゃん達もいた。4人掛けの相席で、一人のおばちゃんが、

 

「食べなさい」

 

と言って、みかんをくれた。

 

泣きそうになった。

 

高慢でアタマでっかちな高校生は、いわゆる世間の普通の人を、どこかで馬鹿にしていた。平凡である事、世の中の流れに巻かれてしまう人たち、何の教養もない、考えもしない人たち。

 

現代国語の授業で、J先生が話していた事を思い出す。

「みかんでも、と見ず知らずの人に差し出す」

そんな触れ合いの中にある日本の良さを、先生は話した。

 

自分は、その日本のシステムを嫌い、こうして、家出までして、何をするのか?

何を求めているのか?

 

この目の前にいるおばちゃんは、私が考えていることも、家出の真っ最中だということも、本当は、そんなおばちゃんの生き方も、もしかしたら否定しているということも知らないで、みかんを勧めてくれている。

 

「ありがとうございます」

 

と受け取った私の顔は、少しこわばっていたかも知れない。

 

でもね。

 

今、自分がこの年になって、あの電車の中でのことを思い出すと、あのおばちゃん、全部わかってたんだと思う。これは、家出から戻って、学校に帰った時にも気づいたこと。

 

 大人って、そういうこと、わかってる人たちのことなんだ。

 そして、そっと見守ってくれたり、道標になるものを差し出してくれたり。

 

私は、黙ってみかんを食べる。

美容院という、商売人の家に生まれた私は、本来なら、こういう時に、社交辞令的なおしゃべりもできちゃうのだが、その日は違った。沈黙していることが苦痛だった。

 

今治行きのフェリーが出る三原駅に到着。

台風の後の、雨を含まない風がビュービューと吹いている。

出航できるかどうか、待合室の乗客たちと一緒に待つ。

 

空が明るくなる。出航だ。

 

いつもは穏やかな瀬戸内海が荒れている。

この同じ海を、今、うちの家族は、祝島から本土に向かっているんだなあ。

考えるのをやめよう。心がヒリヒリする。

 

電車に乗る。

今治から、伊予寒川まで。

 

通学の中学生や高校生が乗ってくる。

私だけ私服で、思わず、自分の立場を正当化しようとする。

学校休んで病院に行くところとか、学校が休みとか。

「世間」という枠から外れた自分を、四国という知らない土地の中で、しみじみと認識する。もう戻れない。

 

 そのアウエイ感に慣れた頃、電車は、瀬戸内海に向かって開けた平野をトコトコと走り始める。学生たちの通学時間も過ぎ、少し静かになった車内。

 

 外を眺めていると、

 

 「虹だ。。。」

 

 それも、何重にもなった大きな虹が、台風が去った四国の平野に弧を描く。

 

 それは、家出という選択をした自分を、まるで誰かが応援してくれてるようなタイミングだった。

 

 「もう’’あっちの世界”に来たのかな。それとも、これからなのかな。」

 

 一線を超えてしまった現実は、不安よりも、もう進むしかないという勇気を起こし、これから訪ねる新長谷寺の住職さんに会うことへの期待に変わる。

 

 17歳の秋。自分で決めた。

 自分で、自分の人生を決めていくということ。

 レールを降りた日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の「まいにち」をつくる人たち

 「あなたは何をする人ですか?」

 

と聞かれたので、私は、私の日々を一緒に過ごす人や、一緒に過ごしたいと思う人や、私の世界を一緒に作ってくれる人たちの写真を並べてみることにしました。

 

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去年の11月のAirbnb Openというイベントがあって、それに参加した日本から来たAirbnbのホストさんが、共通の友人を通して、我が家に遊びに来てくれました。

 

その時に、他のホストさんたちもやってきて、私たちは、カズンズというグループを作りました。民泊のAirbnbを始め、もっとシェアリングのコンセプトを広めて、住みやすい世界を作っていこうといういうことで。

 

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巨大ポッキーの箱で作ったカズンズの看板。Airbnb Openの時に、持って歩く。

 

「カズンズ」というネーミングは、友達以上、家族未満、つながっているけど、いっつも一緒じゃなくてもいい、でも、時々会ったりする、ちょうどいい関係ということと、そのつながりで、いざという時は、お互い助け合ったり、協力しあったり、できたらいいね!というイメージでつけました。

 

そして、カズンズとして、日本の稼業のお手伝いをするネットワークを作ったり、

継いでくれる人のいない第一次産業などの問題点を調べて、できることをしてみようということで、まず、最初の企画として、牡蠣ツアーというのを立ち上げました。

 

ちょうど、共通の友人を持つ彼女の友人で、うちから車で10分のところに住んでいるマリちゃんが、牡蠣が大好きで、牡蠣ツアーを企画することにしたのです

 

で、たまたま二人が気になっていたトーランスという町にできた牡蠣ショップを訪ねて行ったら、なんと、私たちにもお手伝いできることがたくさん見つかったのです。

 

 このトップの写真は、昨日の日曜日、そのお店が出店しているイベントで、マリちゃんと、オーナーのマークさんが牡蠣をシャックしているところです。最初に持って行った牡蠣がお昼過ぎには完売するという、大盛況ぶり!

 

二人とも、とても素敵な、牡蠣Loverです。

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次の写真は、うちのゲスト(民泊やってます)です。

 

アディは、某IT系の大企業のセールスマン。会社に毎日通うのではなく、いつも、ネットで仕事してます。

 

去年の11月から滞在している彼は、陽気で、スノボーしに週末は山に行ったり、毎日ジムに通ったり、時間のある時は、スタートアップコンテストなど、ネットで見つけた面白そうなイベントに参加したり、クラブに行ったり、趣味も多彩で、元気な青年です。

 

今日は、そのアディの誕生日。

 

ジムの帰りに、大量の健康食品を買ってきて、撮影中。

 

"This is my birthday present for me! "

 

今日は、昨日まで長期滞在していた、ニューヨークのジャズミュージシャンの使ってた部屋に移ります。

 

”You got a new room for new you! Sounds good?"

 

彼がリクエストしていた部屋を提供するのが、私たちからのプレゼント。

 

そのジャズミュージシャンも常連さんで、サーフィンしにウチに定期的に来るようになりました。次回来る時は、ピアノのある家かレストランで、彼のライブを企画しようと話しています。

 

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Happy Birthday, Adi!

 

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私がやってる民泊「チャノマハウス」には、毎週金曜日に、ロサンゼルスの人気フードトラックKOGIがやってきます。

なんで?という問いに対する一番短い答えは、フードトラックが好きだから。w

 

一番長い答えは、私もフードトラックをやってて、そもそも、このチャノマハウスの物件を見つけたのも、自分のフードトラックを置きたかったから。私のフードトラックは、ストリート復活を目指して、今、修理を待ってるところです。

 

なんでフードトラック?と、突っ込まれると、「移動できるものが好きだから」と「好き」で答えてもいいんですが、それでは、多分、私が他のことをやってる理由が分からないと、ますます、混乱する人もいるようです。

 

私は、コミュニティをデザインしたいんです。

もしかしたら、自分がずっと住むかも知れない、このロサンゼルスという町を、もっと住みやすくしたいと思っているのです。

 

ロサンゼルスは、車社会です。この町に住んでる日本人の多くは、日本食は、主にサウスベイというところにある日系のマーケットに買い物に行きます。でも、年をとったり、体を壊したりすると、誰かの運転に頼らなければならなくなります。レストランも同じです。

 

キッチンごと移動できるフードトラックは、使い方によっては、その問題を解決できるかもしれません。

これは、フードトラックを始めた理由のほんの一つですが、私の中には、そんな妄想がいつも駆け巡っています。

 

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 先週の金曜日は、いつものKOGIのトラックが故障して、別のトラックでやってきたので、バナーをかけて、わかるようにしてます。マルコ、いつもありがとう!

 

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先週の木曜日、チャノマハウスのキッチンに集まってくれたお友達。

今度、お手伝いすることになった、牡蠣のトラック The Jolly Oyster のメニューを一緒に考えてくれてます。

 

チャノマハウスでは、誰か日本からお客さんが来たり、誰かが美味しいものをシェアしたい時などに、「河童バー」ということで、集まることがあります。私の昔から使ってる、ネットでのハンドルネームが「かっぱ@ロス」だったりするので、その名前になりました。

 

去年、何回かやってみて思ったのは、確かに楽しいんだけど、私には物足りない。

何が物足りないかっていうのを考えた時に、

 

「未来をじっくり語れない!」

 

というのが、その原因だと気付きました。

 

ので、今年からは、未来のことを話せるメンツで、建設的なテーマで開催します。

人数を集めることは、いつでもできるし、集まるだけ、楽しいだけの宴会なら、いろんなところでやってるので、河童バーは、かっぱの都合で、未来を作る場にします。(宣言!)

 

この日は、牡蠣の開け方(シャック!)を、マリちゃんがみんなに教えて、有意義な時間となりました。また、ひろ子さんをはじめ、お料理得意な人たちの意見や、アメリカ永住組の貴重な意見がたくさん頂けて、ありがたかったです〜!次のイベントもよろしくお願いします!

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牡蠣ラーメン、牡蠣焼きそば、もちろん生牡蠣も食べて、牡蠣フライまではできなかったけど、お腹いっぱいになりました。牡蠣焼きそばは、土曜日のLa Canadaのファーマーズマーケットで好評でした!

 

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私の住んでるロサンゼルス空港の南の小さな町、エルセグンドは、この写真のマンハッタンビーチと空港の間にあります。

 

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このエルセングンドという町に引っ越すのを決めたのは、カービー、私の旦那様です。

上の娘が小学校に上がる前に、彼は、それまで住んでいたパサデナの友達の家を出て、ビーチの近くに住みたかったようで(サーファーです)、自分で色々調べていたようです。

 

「学校もいいし、ロサンゼルスで一番犯罪率が低いから」

 

と、一度、見に行こうと、見に行きました。

 

カービーは、日系4世で、ロサンゼルス生まれ、ロサンゼルス育ち。

私たちが知り合ったのは、80年代半ばの東京。バブルがはじけ始めた頃でした。

 

今でこそ、Husbandだと人に紹介するのも、慣れてきましたが、私たちは、ずっと友達みたいな関係です。

 

結婚しようと思って、結婚したわけでもないので、本当に、「家族」になるまでに、ずいぶん時間がかかりました。

 

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エルセグンドの高校は、テレビドラマ「OC」をはじめ、多くの映画の撮影現場として使われている美しいキャンパスです。確かに安全そうな町で、住みやすそうでした。

 

空港を見渡せる坂の上で、空港をさしながら、カービーが言いました。

当時、私はまだアメリカでの運転免許も持っていなくて、パサデナで通ったコミュニティカレッジにも、自転車で行ってたのです。

 

「ほら、ここなら、喧嘩して、日本に帰りたくなっても、すぐに飛行機に乗って帰れるだろ?」

 

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その時のカービーの顔を、私は覚えてません。

 

半分冗談で、半分本気だな、こいつ。ってことだけは伝わりましたけど。(^^)

 

私は、その後、車の免許も取って、日本にも何ども行ってます。

でもなぜか、喧嘩して帰ったことはありません。

 

今は、もう両親もいないし、帰る場所も、ほぼないに等しいのだけど、

その前から、私のホームは、カービーがいるところになってました。

 

こんな人たちと一緒に、私は、まいにちの世界を作っています。

もっと沢山、登場人物はいますが、とりあえず、ここ一週間のメインの登場人物。

 

え?まだ、私が何をする人かわからないって?

 

私は、自分の心の平和を保ちながら、未来を建設するための毎日を作る人です。

 

そう努力しています。

 

そのために、やった方がいいなと思うことは、優先順位をつけながら、何でもやっちゃうというスタンスです。だから、「これ!」ってひとつには決められないし、決めない。決めちゃうことで、優先順位が違ってくることもあるし、目的の本質的なところから外れてしまうかもしれないからね。

 

こんな生き方する人、これからもっと出てくると思う。

そして、人も世界も、もっと自由になる。

 

少なくとも、私はそんな妄想をまいにちしてる。

それが、何かに反対したり、人を批判したりするより、本当に自分が作りたい世界を作るための一番の近道だと教えてもらったから。

 

ほら、ジョン・レノンの歌にもあるじゃん。

Imagine 想像してごらんよ、ってね。

 

動かされる快感

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ひとりの金融マンの英国人が、ある日、職業を変えようと思った。もうこれ以上、人間を数字だけで認識する世界にいたくないと思ったと言う。

 

彼が選んだビジネスは、牡蠣。20年経って、その英国人はロサンゼルスのブレントウッドという高級住民街のファーマーズマーケットに立って、牡蠣を売っていた。

 

彼のストーリーを聞いたのは、その日が二回目。 一回目は、私達の住んでいる町にある、日系マーケットの外にあるテーブルで。そして、二回目は、そこから30分以上かかるブレントウッドへ。

そして、そこで、翌日、彼の住んでいる町へ行くと約束した。

 動かされる快感を楽しみたい。