基地ログ!

旅するカッパのチャノマハウス。時々開店、河童バー。

ちきんわぁっふるぅ〜

「チキンワッフルって、どこかで食べられますか?」

 

来週月曜日、

金沢からロサンゼルスにやってくるアラサー男子二人のひとり、

ガマちゃんが、オンラインミーティングで、ボソッとつぶやく。

 

ちきんわぁっふるぅ~???

 

「なんか、まだ日本に入ってきてないもの、探したいんで」

 

果たして、ガマちゃんは、チキンワッフルを食べられるのか!?

 

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こんにちは!

南カリフォルニアの懐かしい青空の下から

かっぱ@ブロガーリハビリ中!です。

 

あ・お・ぞ・らぁ~!

らららんど~♪ 

*1

あー、君に会いたかった!

 

ロサンゼルスのみなさん!

あなたのスマイルは私のスマイル!

長い水不足、雨は恵みと知ってはいても、この青空!

ウツになってる場合じゃないよねー!

こうして、脳天気なカリフォルニアンは作られるのだわ。

ウツよりマシだ。幸せじゃないと勿体無いほどのお天気。

ロサンゼルスに住んでて良かった~!

って思う瞬間です。

 

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この晴れた空の下、

友達のフードトラック、手伝ってきました!

 

場所は、うちから車で10分の

TOMS!

一足買えば、もう一足を寄付できる!

TOMS® Official Site | The One for One® Company

 

もー、久々に晴れたこの日にふさわしいロケーションですっ!

にくいわ、トラビス!

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一匹狼のくせに、場所取りの交渉上手な、にくいトラビスちゃん。

(トラビスちゃんの手の横、カウンターの上に注目!)

 

そして、いつも、トラックの中で

巨乳で、私の行く手を阻む、コニー。

 

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トラックの中にもテリトリーがあるのさっ!

 

で、ガマちゃん。

 

チキンワッフルってさ、

これのこと?

 

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昨日も、私が、 

 

久々の晴れの日で、ホットロケーションTOMSのはずなのに、

12時過ぎても、誰も出てこなくて、

「げげっ!会社のイベントの日で、ランチが中で出されてる日、

選んじゃったんじゃないの?」

と密かに心配していたら、

12時半過ぎてから、

中から社員がドドドドドドッ~~~!と、

怒涛のように流れ出てきて、

あっという間に、顔も上げたくなくなるほど行列が出来て、

 

作りまくっていて、

 

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あまりの忙しさに、

あっちっちちちぃ~!

と、火傷してしまった、

 

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 この熱~いワッフルメーカーで作っちゃう、

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このチキンワッフルのことでせうか?

 

ロス入り三日目の水曜日に予約入れておきました。

ご要望ならば、トラック、巨乳ごと、手配いたしますぜ、お兄さん。

 

 2月27日(月)に、カナデル、いよいよロサンゼルス入り!

フードコミュニケーションの毎日を、カリフォルニアからお届けいたします!

日々、新しいリターンが追加されてますので、要チェック!

camp-fire.jp

 

 

 

*1:週末のアカデミー賞発表、ノミネート作品「LA LA LAND」

「キモい」のココロ

「キモい」という言葉を使ってみた。

気持ちいい青空の下、

南カリフォルニアでは、滅多に使わない日本語の俗語。

使ってみてわかったこと。

日本の若者には、「キモい」という言葉は、ほぼ地雷らしい。

(仮説A)

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こんにちは!かっぱです!

南カリフォルニアのパームツリーの下、元気にブロガー@リハビリ中!です。

 

「キモいは、キツイですよー」

 

と、ここ一週間、クラウドファンディングの立ち上げを一緒にしていた若者が言う。

 

「僕、彼女作る時の条件が、『キモい』って僕のことを言わないことでしたもん」

パソコンオタクの彼にとって、そのオタクぶりをキモいと言われることは、

かなり辛かったらしい。

 

一時、LAでアニメイベントに関わっていた私としては、

オタクに囲まれて過ごしているのがフツーで

f:id:Chanomahouse:20170221165212j:plain フツーに着ぐるみが家に同居してた頃

半端なオタクの方がキモかったが、日本では事情が違うようだ。

 

ことは、去年の今頃にさかのぼる。

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あ、これは幟(のぼり)

 

オンラインのあるコミュニティに入って、

どうにも気持ちが悪くなった。

 

すなわち、キモい、である。

 

【注意事項】

アメリカ在住暦25年余。日本語使ってても、フツウの日本人だと思ってはいけません。ストレートのもの言いは、英語を直訳しただけの翻訳語であって、遠まわしに「察しろ!」と強要する日本語ではありません。心の繊細な方は、これから先はお読みにならないことをオススメします。もし、この先を自己責任で読んで、心がくじけても、筆者は一切、責任を負いません。あしからず。

 

気持ち悪い=キモい。

 

日本語は難しい。

表現の仕方によっては、主語と目的語が明確でないので、

誰が何を気持ち悪いと思っているのかがはっきりしないことがある。

 

なので、「キモい」と思ったら、まず、

 

「誰」

「何」

「どういう理由」で、

キモいと思っているのか?

 

ということを明確にする。

 

この場合、「キモい」と言ったのは私なので、主語は「私」。

 

私が、このネットのコミュニティにいることで、「キモい」と思ったわけである。

それは、その環境にいることで起こったわけで、

 

「キモい」=居心地が悪い。

 

言いかえれば、そういう意味も込められると推測してみる。

(仮説B)

居心地であって、人とか、モノではない。

あくまでも、空気みたいな「場所」のキモさ。

 

入ってから、すぐに感じた、この「キモい」は

正確に言えば、

 

窓路腰衣~!

 

(まどろこしい、が自動変換しました)

 

言いたいこと、言いにくい、雰囲気。

 

疲れるわー。

何でしょー、これ。

 

仲良しクラブみたいな、

馴染めない人にとっては、入って行きにくい雰囲気。

 

しかも、年齢層、平均20代?

 

有料で、社会人と学生の月会費が倍くらい違うから

当然、社会人もいるかと思いきや、

モード、まるっきり、学生だし。

 

これ。

何か覚えがある。

 

子供が小さい時の、公園デビュー。

あれも、キモかった。

 

なんか、暗黙のルールみたいなのがあって、

それに従わないといけないという、

妙なプレッシャーがある。

 

「はっきり言って、あんた、こういう場所、合わないんじゃないの?」

 (そのとおり!)

と、自分に突っ込みながらも

お金も払ってることだし、もう少し観察してみよー。

 

その空気を作ってるのは、そこにいる人間なのだよね。

 

キモいのココロの探求は続くのである。

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 ☆写真は、何年ぶりかの雨の多い冬、庭においてる人工芝から生えてきた

  キモいキノコみたいなもの。キモいものは、ドキドキさせてくれる。

 

 

「キモいは、キツイですよー!」と、「キモい」の地雷を恐れていたホークくん。

ここ2週間くらい、ほぼ毎日、オンラインミーティングをしています。

私が、このブロカレで見つけたのは、こういう才能ある、そして、未来を一緒に作っていけそうな若者達とのつながり。これは、小手先の技術を習うより、ずっと大きい。

彼らとの会話で、毎日、いろんな発見があります。

 

さて、そのホークくん、無事、彼女も見つかり、今度はクラウドファンディングに、相棒のガマちゃんと挑戦です!応援よろしく!現在、ロサンゼルス在住の人にも応援してもらえるリターンも追加しますよ! お楽しみに!

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PTSDを生きる 〜「この世界の片隅で」沈黙する〜

「ずいぶん、淡々と話すんですね」

 そう言われる度に思った。

「じゃあ、どういうふうに話せばいいんですか?」

 

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 *1

 

メキシコに亡命してきたチリ人のボーイフレンドが

デモに巻き込まれ、不当逮捕されて、行方不明になり、

自分も、別の場所で、パスポート不携帯で、留置所に送られ、

シャバに出てきたら、日本大使館で、日本に帰れと言われる。

 

「半強制送還」と説明することにした。

 

そのうち、その話を、まるでシナリオでも読むように、

「あらすじ」だけ話す。

なるべく、その時の状況を思い出さないように。

 

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*2

 

心に傷を負った人たち。

 

空が落ちて、私は、その人たちの仲間になる。

 

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*3 

 

悲劇の主人公を演じるのが好きな人は多い。

 

でも、自分の心のキャパを超えるような、

想定外のことが突然起こると、

可哀想な自分に酔ってる余裕なんかない。

 

人間の精神構造は、

人類の文明の進化と同じように進化してなくて、

 現代社会のスピードの速さ、変化に、

心はついていけない。

 

ストレスは溜まり、

経験という情報を処理する方法も能力もない内に、

人の心と体のメカニズムは、誤作動を起こし始める。

 

自殺も、その結果だという説に、納得した。

 

私が自殺しなかった、いや、出来なかった理由。

 

いくつかある。そのひとつが、ボブ。

 

ボブに出会ったのは、

川下にあった、188号線の老舗のバーだった。 

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*4 

 

たった1年半のメキシコでの生活だったのに、

その事件のおかげで、

帰ってきた平和ボケな日本は、

木星くらい、遠い国になってしまった。

 

唯一、田舎で居場所になったのが、

岩国基地の周りにある米軍相手のバーやクラブだった。

 

ティーンエイジャーの頃から出入りしていたその店は、

マスターが、何十年も同じジョークを言ってるような、

時間が、ベトナム戦争あたりから止まってるとこで、

私のような若い女の子が、

ふらっと一人で入ってくることは滅多にない。

 

ある日、知り合った岩国基地のベトナム帰りの兵隊。

やたらデカい白人のその男は、バーのカウンターに座っていた。

 北欧の苗字で、「デカイ」という意味の名前だった。

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 *5

 

俺がベトナムにいたと知ると、いろんな奴が聞くんだ。

戦場の話をしてくれ、ってね。

 

ボブはイリノイの田舎の出で、

素朴な雰囲気が、ベトナム帰りという物々しさを消していた。

 

俺は話し始める。

 

OK、じゃあ、あるジャングルでの戦闘の話をしよう。

 

突然、米軍のキャンプをベトコンが襲う。

戦闘態勢に入っていなかった俺たちは、

慌てて、身近にある武器を、片っ端から手に掴む。

 

敵は、四方八方から攻撃してくる。

動く人影が、ベトコンなのか仲間なのかもわからない。

あちこちで、仲間が倒れる声がする。 

やばい。かなり劣勢だ。

 

やっと身を守れそうな物かげを見つけて、そこへ走りこむ。

身を屈めて、銃を構えた途端に、前に人影が現れる。

 

「ベトコンだ」

 

話を聞いている奴らが、息を飲む。

 

「Bang!」

 

「? 」

 

「 Dead」(死んだ)

 

そこで、俺が笑って、やっと奴らはわかるんだ。

聞くもんじゃないってな。

 

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*6

 

そのボブと、彼がアメリカに帰る前に、

四国と九州を旅した。

 

岩国からフェリーで松山に渡り、

そこから宇和島へ出て、足摺岬へ行く。

 

「ここ、自殺の名所なんだよ」

と説明すると、

「こんな国でも、わざわざ死ぬ奴がいるんだな」

 

偶然にも、泊まった宿の前で、

崖から飛び降りた死体が上げられていた。

本当に死ぬんだ。

 

足摺を出て、また宇和島方面へ戻り、

フェリーで別府に渡る。

 

この間から、四万十に通っていて、気づいた。

ここ、あの時、ボブと乗った路線だ。

 

足摺から宇和島に向かう電車の中、

眠りから覚めて、ふと目をあげると、

向かいの席で、ボブが神妙な顔をしている。

 

外には棚田が広がっていた。

 

「ライスフィールド」

 

ボブが、窓に体を委ねて、視線を投げたまま、つぶやく。 

 

「ベトナムに似てる」

 

メキシコで、英語も話せるようになってた私だが、

ボブとは、その英語で説明する必要なかった。

 

経験は違っても、その痛みが通じた。

話さなくても、よかった。

 

自分と同じ、もしくは、それ以上の重みを抱えて

生きている人たちがいる。

 

そして、それを短い間でも、共有できた人がいた。

 

生き続けることを選ぶのに、十分な理由になる。

 

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 *7

 

 ボブを見送りに、空港内の飛行場に行く。

 今は、民間の飛行場が出来て、

 「岩国錦帯橋空港」になってる。

 

 そんなのが出来る、ずっと前のこと。

 

軍機って、乗り心地悪いんだぜ。

ずっと後ろ向きに、それも硬い椅子に座らされて。

 

 Good Byeと行った後、すぐに踵を返して、

 ゲートに向かって歩いた。

 

 途中、中学校の友達にばったり出会う。

 向こうも気づいて、話かけてくる。

 ちょっと気になってた男の子だった。

 基地の中で働いている同級生は、結構いる。

 

 「友達、送りに来た」

 「兵隊か?」

 「うん」

 

 またひとつ、帰れない場所を作ってしまった。

 

**************** 

追記(蛇足になるかもですが)

沈黙することを余儀なくされた人たちの声を、

ほんの少し代弁してくれるような映画が出来た。

「この世界の片隅で」

この原作者こうの史代さんの

「夕凪の街 桜の国」の映画の中で、

「この町のひとたちは」と始まる主人公のモノローグが、

PTSDの一部を物語る。

銭湯で見かけるケロイドの痕や、なくなった体のあちこち、

そんなものについて、何一つ語らない。語れない。

 

私が文章にしたのは、何も、人に伝えたいということではなく、

やっぱり、自分がここから解放されたいと思うようになったから。

 そして、その方法が、少し、わかってきたから。

 

【写真について】

*1

 四万十の広井小学校で開催された新聞バッグコンクール

 林真理子さんの本の新聞広告が使われたバッグ

*2

 第二次世界大戦中、真珠湾攻撃の後に、日系アメリカ人が

 強制収容されたマンザナーの慰霊塔でのセレモニー

 毎年、マンザナーまでリレーマラソンをしている友人たちの

 マラソンに、去年、参加して行った。

*3

 メキシコ料理、チリレジェーノを作ってまーす。

 レストランでも、よく注文するメキシコの家庭料理。

 アナハイムというチリを使う。

*4

 一昨年の5月に行った岩国米軍基地のフレンドシップデー

 基地の入り口で、荷物検査。昔は、なかった。

*5

 友達のフードトラックを手伝いに行って、

 そのイベント会場で撮った写真。

 多人種の街ロサンゼルスらしい、

 いろんなカラーの絵が描かれていた。

*6

 ラグナビーチで寿司屋をしてるミキさんと、

 初めて一緒に行ったハイキングで、見つけた木の瘤。

 自然の力強さに励まされる。

*7

 岩国のフレンドシップデー。

 以前のようなフレンドリーな雰囲気が、

 当日の雨と、こんな警戒態勢でますます異様に。(^^;

 

 

 

 

 

空が落ちる 〜 ドラマへようこそ!

アメリカの新しい大統領、トランプ氏への抗議デモが各地で起こっている。

先週の日曜日のロサンゼルスのダウンタウンでのデモも凄かった。

でも、私は行かなかった。いや、行けなかった。

 

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(Smoky Hallowのフォトスタジオの壁) 

 

行かなかった。やることがあったから。

いや、正確には、やることがなくても、行けなかった。

それは、100%、あの日を思い出してしまうトリガーになるからだ。

 

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(1985年5月1日から6月4日に日本に戻るまでをメモしたノート) 

 

 

1985年5月1日。

メーデーのデモ隊が、私とパトが住んでいたアパートの横、

新聞街のBucareli 通りを行進していた。

Morelos 通りとBucareli 通りの角にあるアパートの入り口で、

私に追い出されたパトは、自分の荷物を持って、タクシーを待っていた。

 

事件は、その場から始まった。

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(マンハッタンビーチの桟橋) 

 

ブログを始めるために。

新しいビジネスを始めるために。

ウエブサイトを作るために。

自分史のアドバイザーになったから。

プロフィールが必要だから。

 

私が、自分史を書かなければならない理由はいくつもある。

 

それなのに、書けなかった理由は、この1985年5月1日。

 

それは、思い出すのが辛い作業で。

 

 せっかく、日本を出るまでを一挙に今日書けたのに、

ここで、もう一時間も止まってる。

 

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(フリーウエイ110と105のジャンクション@ロサンゼルス) 

 

 事実だけを述べるなら、

このデモに巻き込まれて、パトは逮捕されてしまった。

当時、パトの生まれた国チリは、ピノチェットの独裁軍事政権で、

美術の教師の父のいるパトの一家は、メキシコに亡命した。

不当逮捕されたパトの身柄は、留置所に拘束された。

 その同じ留置所に、そのあと、私も入ることになる。

テポストランという、シティから一時間ほどの村で、

全く違う事件に巻き込まれ、パスポート不所持ということで、留置所に入れられた。

そして、同じ場所で捕まった知人に、パトが同じ場所にいることを聞かされた。

 

結果、私は、日本大使館に助けを求めに行った知人に助けられ、

3日で留置所を出る。

 

パトは、カナダへ難民として、国外追放されたと聞く。

 もう30年以上も前のこと。

それっきり会ってない。

 

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どこだか忘れた、この写真。

私が、テポストランで私服警官に、パスポート不携帯で捕まり、

そのテポストランから、近くの大きな町、クエルナバカに移され、

そのあと、メキシコシティに、パトカーで向かっている時の空に似てる。

 

空が落ちるなんて、誰も考えない。

全く予期せぬことが起きる。

天から不幸が落ちてくる。

 

空が落ち、

突然、立っていた地面が揺れ、

天地がひっくり返り、

何もかもが信じられなくなる。

 

 それまで、毎日、挨拶していた近所のポリス、

近くの新聞社で働いているセキュリティガード、

制服を着た人たちが、みんな敵に見え始める。

 

 パトが逮捕されて、その居場所を探している時に、

私は同じ言葉を、スペイン語で、何十回と繰り返した。

 おかげで、その後、久しぶりに会った友達に、

スペイン語、うまくなったね、と言われる。

 

必要があれば、コミュニケーション能力は磨かれる。

冷静に状況を説明しようと試みるが、

途中から感情が抑えきれなくなって、

終いには、相手に怒鳴っているなんてことも多々あった。

 

まるでお芝居のようなシチュエーションの中で、

私は、見事に昼メロの女優だった。

あんだけの感情を込めて、しゃべり続けたことは、

後にも先にも、あの時しかない。

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( Smoky Hallowの壁)

 

一旦、探すのをパトの家族に任せ、自分の生活に戻ろうとした。

ちょうど、テポストランという村で、まりこさんが出産したところだった。

手伝いに行くために、私はシティを離れる。

 

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(ティファナ近くの魚市場) 

 

日曜日、テポストランの町の中心に立つ市場は、観光客や地元の人たちで賑わう。

 

テポストランには、多くの外国人が住んでいて、

その中には、この中心地で、レストランなどのビジネスをしている人もいる。

 

CAFE LUNAもそのひとつで、

スイス人の女性が経営している、外国人の居住者たちに人気のカフェだ。

 

その日、まりこさんに頼まれた買い物の途中で、

私は、LUNAで昼食を取る。

 

食事を終えて、コーヒーを飲んでいる時、

にわかに入り口付近が騒々しくなった。

 

人混みを抜けて、

ひとりの小太りのメキシコ人の男が、こちらに歩いてくる。

 

「Pasaporte, por favor. パスポートを見せてください」

は? 持ってきてないよ、買い物だけなのに。

「では、こちらに」

男は、私の他、周りにいた外国人たちを、表に停めてあるバンへと連行した。

 

多くの友達が同じ時に捕まり、何人かは、実際、自分の国へ送られた。

あとでわかったことだが、

この事件は、CAFEのオーナーとローカルの実力者の間での諍いが元で

テポストランにいる外国人を占めだそうとしたその男が、

クエルナバカの警察に、

不法滞在の外国人がいると通報して起こったことだったらしい。

 

空が落ちて、

私の世界は、怖いものだらけになった。

 

留置所の部屋、一晩中つきっぱなしの裸電球の下で、

Welcome to Mexico、これからがお楽しみ、と誰かがつぶやいた気がした。

「怖いもの、なくなるわよ」と姐さんは止めた。〜脱出先はメキシコ〜

「若い娘がメキシコなんて行っちゃうの、どうかしらね。」

と、クレちゃんが、ボブの黒髪の間から、クリクリとした目を光らせて言う。

 

 私は、まずメキシコに行くと決めた。

 そして、メキシコに住んでいた、母の友人のクレちゃんのとこに、相談に行った。

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じゃ、何でクレちゃん、行ったのよ?

 

「私は知らなかったからよ。」

 

岩国基地の近くで育ったクレちゃんは、英語も得意で、確か化粧品会社の仕事で、

世界中を回っていた。

 

何を思ったか、メキシコのタスコに行くと決めて、何年かそこに住んだ。

 

「家に帰ったらね、死体が転がってるの。びっくりしちゃうわよね!」

クレちゃんの話は、面白かった。とても、怖がってるように思えない。

「ね。怖いもの、なくなっちゃいそうでしょ?」

クリクリの目が笑ってる。

「怖いものがない女なんて、嫌がられるんだから」

私は、メキシコに行くことにする。

 

実は、私の最終目的地は、メキシコではなく、スペインのマラガだった。

マラガで絵の勉強をしようと、手続きを始めていた。

 

そんな時、メキシコから手紙が来る。

まりこさんからだ。

インターネットなんてない時代。

よく手紙なんかで、やりとりしてたと今だから思う。

 

「ひろみちゃん、スペイン行くの?メキシコ、寄っていかない?

 私のカメラ、持ってきてほしいのよ」

 

まりこさんは、私より4つ上で、同級生のお姉さんだった。

3浪してまで、芸大に入ったのに、1年で、メキシコ人と結婚して、中退。

彼女が芸大の、今はなき上石神井の芸大寮にいる時、よく遊びに行った。

 

まりこさんとのメキシコの日々を、私は、いつか文章に書く日が来るかもしれない。

そう思っていたが、今、キーボードを叩きながら、

「まだ書けない」と思う。

 

なんでだろう?

 

プライバシーの問題とか、出せない名前があるとか。

 

でも、一番の理由は、私が今、あの頃の自分の感性で、生きてないからだ。

 

彼女は、紙一重のアーティストで、

それに振り回された私も、その頃は、アートの道を何らかの形で歩むと思ってた。

 

研ぎ澄まされた神経は、時には、狂気のように、

社会的には、ナンセンスで、荒唐無稽な行動を起こさせる。

そんな日々も、メキシコにいると、そのカオスの中で溶けてしまう。

 

あの日々を振り返るには、私は、そこから離れ過ぎてしまっていて、

その意味が多分、解読できない気がする。

 

一つだけ、書けることは、彼女と過ごした日々のおかげで、

確かに、怖いものが、だんだんなくなっていった。

 

ほぼ無一文で、 ユカタン半島までヒッチハイクして行ったり。

内戦中の中米を一人で旅行したり。

ユダヤ人の医師と一緒に、戦争中の軍部の司令官に会いに行ったり。

そこから、キューバに渡って、

この間、亡くなったフィデル・カストロに偶然会ったり。

 

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うーん。書きながら、思った。

 

なんて、無謀なやつ。

何かあったら、日本で「自己責任」とか言われるパターンだわ。

22歳の時だ。

 

自分の歴史を辿りながら、私は、親の目で自分を見る。

 

うちの娘たちが、22歳の時、こんなことをしてたらと思うと、

こまるよね、ほんと、親として。

 

怖くて、体が、今、一瞬、硬直したよ。笑

 

結局、私は、スペインに行くことなく、まりこさんのいるメキシコに残る。

 

「征服した国より、征服された国の方が面白いよ」

 

彼女は、私の何かをその時点で、征服した。

 

そして、留まったメキシコで、私は人生最大の洗礼を受ける。

 

 

 

チンチロリンと崖っぷち 〜関西の日々〜

チンチロリーン

 

お椀の中で、サイコロが踊る。

 

私をここに連れてきたタクシーのおっちゃんが、サイコロを転がすのを眺める。

 

「運が悪かったなぁ。まあ、しゃあない。

 逃げたもん、追っかけていっても、あんまりええ事はないわ」

 

 自転車の放浪が終わり、奈良の生駒の山上で、別荘の管理人をしていた時に、

真夜中のタクシーの洗車のバイトというのをしたことがある。

 

 時給が良かった。

 管理人以外に、週2日のその会社の出版部への出勤と言うのがあって、

 その時間以外に確実にできる仕事は、夜中しかなかった。 

 

 別荘は、生駒山上遊園地のすぐ下にあった。

 ケーブルを二つ乗り継いで行く山の上から、最終で、下界に降りていく。

 

 近鉄で鶴橋まで出て、JRで京橋まで行く。

 椿本チェーンの工場の近くまで、最終のバスに間に合えばいいが、

 ほとんど間に合わないので、最初から歩く気で、ウォークマンを用意する。

 

 ビリー・ジョエルや、サイモン&ガーファンクルや、Earth Wind & Fireや

 録音してたのは、ほとんど洋楽だったと思う。

 

 ちょうど一本終わる頃に、洗車場に着く。 

 

 洗車場は夜中にオープンする。

 タクシーが仕事が終わって、帰る前に、車を洗いに来る。

 待ってる間に、同じ経営者がやってるラーメン屋で待つ。

 そのラーメンがおいしかった。

 雇われマネージャーの徳さん夫婦がやってた。

 

 いろいろあって、数ヶ月で辞めた。

 

 少しして、バイト代をもらいに行こうと、いつものように歩き始める。

 歩いているところを、タクシーの運転手で、常連のおっちゃんに呼び止められる。

 

 「姉ちゃん、どこ、いくんや?」

 「徳さんとこに、最後のバイト代もらいに」

 「あそこ、夜逃げしたで」

 

 エェェ〜〜!

 

 雇い主の一家は、夜逃げしていた。

 

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  まだまだ40歳くらいの夫婦で、子供も3人いた。

 お父さんは、頭も良くて、会社に勤めていた頃は、労働組合のリーダーもやってたような人だったらしいが、ギャンブルが好きで、そのために、一度は、一家心中をしようと、子供達に、よそゆきの服を着せて、ガス自殺しようとしたと、お母さんが話していた。

 

 「服着せてたらな、一番下の娘が、

  行きたくない、って。どこにも行きたくないって、ゆうねん。

  あー、気づかれたな、って思うて、そん時はやめた。」

 

チンチロリーン

 

 あれから、あの一家は、ちゃんと生き続けただろうか?

 東尋坊とかで自殺とかしてないだろうか?

 

 その頃、一番行きたい場所が東尋坊だった。

 

 同級生の友達は、みんな、大学行ったり、仕事始めたり、

 新しい居場所を持ち始めた頃、

 私は、どこにも所属していなかった。

 

 会社や仕事はあった。

 住む場所もあった。

 でも、最初の日に、満員電車の中で、気付いた。

 自分が、この生活を選ばないこと。

 よって、自分がそこに所属する人間だという意識は持てなかった。

 

 自殺の名所の東尋坊に行きたかったのは、水仙を見たかったからだ。

 水仙は、私の一番好きな花。

 最初に油絵を教えてもらった時、描いた花だった。

 

 生きること、そのものを、ずっと考えたいと思ってた。

 知識よりも、処世術よりも。

 

 東尋坊に行ったら、何かヒントがあるとでも思っていたのかもしれない。

 

 チンチロリーン

 

 私を呼び止めたタクシーのおっちゃんは、

 

 「まあ、乗れや」

 

 と言って、別の洗車場へ連れて行き、そこで、チンチロリンをおごってくれた。

  なんとなく、ルールを教えてくれて、賭けをした。

 

 二千円勝った。

 

 「これで勘弁したり」

 

 チンチロリーン

 

 大阪の街、生駒の山、京都の隅々まで、よく歩いた。

 今は亡くなられた永六輔さんの講演の後、枚方から生駒まで歩いたこともあった。

 

 あの時のひとりの時間は、自転車での放浪の続きのように、

 私は、いつも風景の中にいた。

 

 チンチロリーン

 

 山上の別荘以外の拠点として、小さなアパートを生駒駅の近くに借りた。

 雑誌のノンノンのパリの特集にあったイラストマップを壁に貼ってたら、

 少しして、母がやってるサプリメントの仕事で、パリ行きの旅がもらえたので、

 代わりに行ってと言われて、行った。初の外国は19歳のパリだった。

 

 外国に出よう。

 

 そう決めたのは、小学生の頃だった。

 

 大きくなったら何になりたいか、考えてくるという宿題があった。

 母に話したら、「ガイコウカンとか、ええんじゃない?」という。

 

 学校に行って、

 「ガイコウカンになりたい」と言ったら、

 「ガイコウカン」って何?と聞かれた。

 

 答えられなかった。

 

チンチロリーン

 

 高校生の時までの日記は、その1年後、メキシコに行く前に、浜で燃やした。

 その時に付き合ったくれた友達の家が、今、私が田舎に帰った時の宿である。

 

 一つだけ覚えているのは、中学生の時、20歳の自分に手紙を書いたこと。

 

 「もし、あなたが生きていて、20歳になってたら」

 

 そんな文章だった。

 

 生き続けることに自信が持てなかったティーンエイジャーは、

 とりあえず、自分に生きてて欲しいと願いを託した。

 

 20歳どころか、もう半世紀、生きちゃったよ。笑

 しかも、子供までいて、これから、もう半世紀、生きようとしてる。

 

 チンチロリーン

 

 今でも、私はギャンブルはしない。

 自分の人生だけで十分だと思ってるから。

 

 そのリアルギャンブルと、数々の崖っぷちを越えて、今、ここにいる。

 たいして、状況が変わっているとは思えない。

 崖っぷちの高さとか、自分が身につけてる装備とか、

 そんなものがどんどん変わっていくだけで、

 先に進もうとする限り、いつだって、崖っぷちに立たされる時は来る。

 

 チンチロリーン

 

 ロサンゼルスに来て、私が崖っぷちに立たされた時、

 その自分を助けてくれたのは、いつも関西の人たちだった。

 

 何をしてくれた訳ではないが、その人たちが投げてくれた言葉に救われた。

 

 「かっぱちゃんな、人の口には戸は立てられへんねん。

  言わしときゃええねん。

  そんなのにな、振り回されても、誰も責任取ってくれるわけやないで。」

 

  関西弁の、あのイントネーションや言葉にある寛容性とエネルギー。

 

  そんだけで、関西ワールドの洗礼を受けた私は救われる。

  ヒアリングしかでけへんけどな。

  

  チンチロリーン

 

  おごってもらったチンチロリンで勝った2千円をもらって、

  また京橋まで送ってもらう。

 

  「元気でな!」

 

  「ありがとぉー」

 

  タクシーの運ちゃんたちにとっては、洗車屋のお姉ちゃん。

  別に、自分が誰であろうと関係ない。言う必要もない。  

  

  そういう出会いを、あの頃、たくさんした。

  自転車を降りた。

  もう「自転車で日本一周してる18歳の女の子」ではない。

 

名前のないこと。

タイトルを持たないこと。

どこにも属さないこと。

 

 その自由の中で、世界を眺めていた日々。

 

 チンチロリンとサイコロが歌う。

 

 名もなく、地位も、レールもない。

 

 それでも、時間は流れ、サイコロは、前に進む目を出し続け、

 着いたアメリカで、今日は雨音の中で、あの日を思い出す。

 

 徳さん一家、生きてて欲しいなあ。

 

 

   

  

  

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ホームレスの翼〜18歳の自転車放浪

17歳で家出した。

向かった四国の新長谷寺では、住職さんが暖かく迎えてくれた。

人の親切が痛かった。でも、どうしても、生きたかった。自分を生きたかった。

その生き方がわからなくて、誰にも聞けなくて、駆け込んだお寺。

 

翌朝、住職さんが、こたつのある部屋に、私を呼んだ。

「ここに行ってきなさい」

紙に書いて、差し出された住所と連絡先。

「川之江学園」と書いてあった。

「園長先生には、話してあるから」

 

電車とバスを乗り継いで行ったそこは、重度障害を持つ子供たちの施設だった。

職員の方が、何も言わずに、笑顔だけで迎えてくれて、1日を過ごす。

たくさんの自閉症の子たちの中で、私は居場所を見つける。

誰にも邪魔されずに、自分でいる場所があった。

施設の中の空気は、別次元だった。

 

生きててもいい。このまま、生きてていい。

自分が何者かわからなくても、生き方がわからなくても、生きてていい。

 

達磨さんが、武帝に「お前は誰だ?」と聞かれて、「知らん」と答えた。

その答えを私もつぶやく。知らん。

 

住職さんから連絡を受けた母が、泣き腫らした目で迎えに来て、「おうち、出る!」と叫んで、何度も家を飛び出した娘の最初で最後の家出は3日で終わる。

 

 その後、とりあえず、申し込んでいた今でいうセンター試験を受け、東京芸大の油絵科も受け、予想通り落ちた。高校は卒業したが、卒業式に出たかどうかさえ記憶にない。

 

目の前には、地図もレールもない時間があった。

 

うちの自転車ギークの兄貴が、高校卒業した時に、世界一周したいと親に言って、反対されてたおかげか、四国への家出の効果か、私が自転車で日本一周したいと言った時、両親は何も言わなかった。日本ならまだいいかと思ったのか、どうせ、反対してもやるに違いないと思ったのか、もう今はいない両親には聞けないが、今、娘たちを持つ身になって、この人たちの懐の大きさ、見守っていてくれたことに、私は感謝してもしきれない。親の愛情というのは、こういうものなのだというのを、身をもって教えてくれた両親、今も、思い返す度に、教えられることがたくさんある。

 

自転車の溶接を勉強するために、神奈川県の職業訓練大学校に通っていた兄のところに、しばらく居候して、自転車を作ってもらう。赤いランドナー。前輪に二つのバッグとフロントバッグ、そして、寝袋を後ろにくくりつける。5月の終わり、私の旅は、兄貴がいた相模原から始まった。

  

1. 交差点で見つけたもの

 

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 写真は、ロサンゼルス空港の近くの我が家への家路、フリーウエイ105。

405から105へのカーブを曲がると、夕焼けが見えてくる。

 

この間、その夕焼け空に、翼のような雲。

 

「ペガサスの翼だ」

あの光景が蘇った。

www.youtube.com

 

(初めてYoutubeで見ましたが、すごい80年代ぶりですねw)

 

この歌を、私は、雨の降る中、自転車で走りながら、歌ってた。おぼつかない歌詞の記憶、サビのペガサスのとこばかりを繰り返す。

東京を出発してから、初めての本格的な雨は、ホームレスにはちょうどいいシャワーである。梅雨が始まる兆しの雨、濡れてもそんなに寒くない。濡れた路面も、いい具合に滑ってくれて、ペダルが軽い。気持ちいい。

 

 日光へ向かう途中、陸橋を超えて、降りたところに、交差点があった。水上という標識も見える。歌っていたせいで、道順が頭から消えていた。

 

 どっちへ行くんだっけ?

 

と、思ったところで、ハッとした。

 

 そうか。どっちに行ってもいいんだ。

 

瞬間、背中に翼が生えた。

選択という自由が、その一瞬、自分の手に落ちてきた。

 

自由は、そこにあった。自分の中にあった。

それを知らなかったのは、私だけだった。

 

雨の中で、走りながら、泣き笑いする自分がいた。

自由は、交差点にある。

 

2. 風景でいたい

 

 自転車の旅から戻ってきてから、東京に行った。

 岩国の母の友人のクレちゃんの家に、ちょっとお世話になる。

 ある日、クレちゃんが、

 「ねえ、ちょっと、その自転車の旅のこと、文章に書かない?」

 と聞いてきた。何かの雑誌に載せるらしかった。

 承諾して、書き始めた文はボツになった。

 クレちゃんが期待していたような内容じゃなかったらしい。

 

 その内容を、今、思い出して、あの時の自分が書こうとしてたことを思い出す。

 

 旅をしている間、「18歳で一人で日本一周している女の子」だった。

 時々、宿などで出会う人に「すごいねー」「勇気があるね」とか言われる。

 クレちゃんも、同じようなことを言った。

 

 「あなたは、その旅をしたことで、何かを証明してしまったのだから」って。

 だから、それにふさわしい文章を書いて欲しかったのだと思う。

 

 今、時が経って、その時の自分に、私は寄り添ってみる。

 自転車で旅をしたのは、誰かに自分を証明するためじゃなかったんだよね。

 私が私であり、世界の一部であり、その世界が私の一部であり、

 そういうのを、感じたかったんだ。

 

 人間には、名前がある。日々の生活の中でも、役割がある。

 旅していた時の私には、その名前が必要なかった。

 誰にでもなれた。何者でもなかった。

 

 私は風であり、その町を通り抜ける音であり、立ち止まって、時間を共有するお客であり、会話であり、日常の中にある風景の一部であった。名前のない、草花や石ころや、そんなものと同列でよかった。

 

 いつか自分も、どこかに定住して、名前やタイトルを持つかも知れない。

 でも、それは、自分が決めよう。多分、私は、そんなことを思ってた。 

 

 北海道で梅雨を逃れ、8月からまた本州の日本海岸を走り始めた頃。

 新潟の駅の近くの万代橋の公園のブランコで寝てたことがある。

 走りにもやっと慣れてきて、1日の走行距離が150キロから200キロの日が続いて、走ることが楽しくて、宿を探す時間も惜しくて、野宿した。

 

 朝起きたら、そのブランコの下に、ラジオが置かれていて、

 お年寄りが、私の方をみんな向いて、ラジオ体操をしてた。

 誰も何も言わずに、手足を動かしていた。

 

 「もしかしたら、透明人間になってる、私?」

 

 でも、そのお年寄りたちは、ラジオ体操が終わると、普通に話しかけてくれて、

 私を特別に扱わなかったんだよね。 

 

 私は、今、誰かの誰かになって、家出が成立しないくらい、自由な家族がいて、

 またいつか、道端の草花や、河原の石ころと、同じような存在に自分がなれる

 日が来るだろうかと思いながら、これを書いてる。

 

3. 天と地をつなぐ未来

 

 陸ちゃんに会ったのは、屈斜路湖の湖畔で開催されてた町のお祭りだった。

クレープを売ってた。眺めていたら、話しかけてきた。

 

 「手伝うか?」と言われたので、手伝った。

 

 「食べるか?」と聞かれたので、一緒にご飯を食べた。

 

 「車で寝るか?」と言うので、泊まった。

 

 山口組の人たちらしく、食事の時に、ハジキの話をしていた。

 陸ちゃんたちとは、北海道にいる間に、3回くらい会った。盛岡の人で、今は暴力だんだけど、一人は、盛岡の進学校の出身で、頭がいいんだと言ってた。

   確か、釧路で会って、そこから札幌に戻るというので、一緒にトラックに乗っていくことにした。最後に別れたのは、札幌のホテルのロビーだった。

 

 たった4ヶ月の旅だったけど、本当にいろんな人に会った。

 札幌のロビーで、陸ちゃんたちと別れる時に、私は予感した。

 

 世界の広さを。自分が、まだその入り口にしかいないことを。

 そして、自分は、この世界にいる多様な人たちと関わっていくということを。

 

 予感は、戦慄のようでもあり、まるで何かに挑む前の武者震いのようでもあり。

 

 その後、陸ちゃんとは、電話で2回くらい話した。

 ガンを患っていると言った。

 

 ロサンゼルスのミツワというマーケットで、イベントの仕事をしている時、

 陸ちゃんのことを知ってるという業者の人に出会った。

 

 「あぁ、あの東北の、クレープやってた人でしょう?

  亡くなられたって聞きましたよ。」

 

 カタギな18歳を拾ってくれたヤクザのおじさんは、今でも私の風景の中にいる。 

 

 結局、自転車での旅は、途中から膝の関節炎を患い、途切れ途切れになって、九州入りした後は、普通に残りの日本を旅した。

 

 その後、母の伝手で、生駒山の山頂近くの別荘の管理人と、その別荘を持ってる会社の出版部のお手伝いをすることになる。放浪に終止符を打つ。

 

 ここから、ディープな関西ワールドに突入することになろうとは、19歳になったばかりの私には予想できなかった。

 

 行きまっせ、関西は生駒!芸妓さんの町、宝山寺!