基地ログ!

旅するカッパのチャノマハウス。時々開店、河童バー。

チンチロリンと崖っぷち 〜関西の日々〜

チンチロリーン

 

お椀の中で、サイコロが踊る。

 

私をここに連れてきたタクシーのおっちゃんが、サイコロを転がすのを眺める。

 

「運が悪かったなぁ。まあ、しゃあない。

 逃げたもん、追っかけていっても、あんまりええ事はないわ」

 

 自転車の放浪が終わり、奈良の生駒の山上で、別荘の管理人をしていた時に、

真夜中のタクシーの洗車のバイトというのをしたことがある。

 

 時給が良かった。

 管理人以外に、週2日のその会社の出版部への出勤と言うのがあって、

 その時間以外に確実にできる仕事は、夜中しかなかった。 

 

 別荘は、生駒山上遊園地のすぐ下にあった。

 ケーブルを二つ乗り継いで行く山の上から、最終で、下界に降りていく。

 

 近鉄で鶴橋まで出て、JRで京橋まで行く。

 椿本チェーンの工場の近くまで、最終のバスに間に合えばいいが、

 ほとんど間に合わないので、最初から歩く気で、ウォークマンを用意する。

 

 ビリー・ジョエルや、サイモン&ガーファンクルや、Earth Wind & Fireや

 録音してたのは、ほとんど洋楽だったと思う。

 

 ちょうど一本終わる頃に、洗車場に着く。 

 

 洗車場は夜中にオープンする。

 タクシーが仕事が終わって、帰る前に、車を洗いに来る。

 待ってる間に、同じ経営者がやってるラーメン屋で待つ。

 そのラーメンがおいしかった。

 雇われマネージャーの徳さん夫婦がやってた。

 

 いろいろあって、数ヶ月で辞めた。

 

 少しして、バイト代をもらいに行こうと、いつものように歩き始める。

 歩いているところを、タクシーの運転手で、常連のおっちゃんに呼び止められる。

 

 「姉ちゃん、どこ、いくんや?」

 「徳さんとこに、最後のバイト代もらいに」

 「あそこ、夜逃げしたで」

 

 エェェ〜〜!

 

 雇い主の一家は、夜逃げしていた。

 

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  まだまだ40歳くらいの夫婦で、子供も3人いた。

 お父さんは、頭も良くて、会社に勤めていた頃は、労働組合のリーダーもやってたような人だったらしいが、ギャンブルが好きで、そのために、一度は、一家心中をしようと、子供達に、よそゆきの服を着せて、ガス自殺しようとしたと、お母さんが話していた。

 

 「服着せてたらな、一番下の娘が、

  行きたくない、って。どこにも行きたくないって、ゆうねん。

  あー、気づかれたな、って思うて、そん時はやめた。」

 

チンチロリーン

 

 あれから、あの一家は、ちゃんと生き続けただろうか?

 東尋坊とかで自殺とかしてないだろうか?

 

 その頃、一番行きたい場所が東尋坊だった。

 

 同級生の友達は、みんな、大学行ったり、仕事始めたり、

 新しい居場所を持ち始めた頃、

 私は、どこにも所属していなかった。

 

 会社や仕事はあった。

 住む場所もあった。

 でも、最初の日に、満員電車の中で、気付いた。

 自分が、この生活を選ばないこと。

 よって、自分がそこに所属する人間だという意識は持てなかった。

 

 自殺の名所の東尋坊に行きたかったのは、水仙を見たかったからだ。

 水仙は、私の一番好きな花。

 最初に油絵を教えてもらった時、描いた花だった。

 

 生きること、そのものを、ずっと考えたいと思ってた。

 知識よりも、処世術よりも。

 

 東尋坊に行ったら、何かヒントがあるとでも思っていたのかもしれない。

 

 チンチロリーン

 

 私を呼び止めたタクシーのおっちゃんは、

 

 「まあ、乗れや」

 

 と言って、別の洗車場へ連れて行き、そこで、チンチロリンをおごってくれた。

  なんとなく、ルールを教えてくれて、賭けをした。

 

 二千円勝った。

 

 「これで勘弁したり」

 

 チンチロリーン

 

 大阪の街、生駒の山、京都の隅々まで、よく歩いた。

 今は亡くなられた永六輔さんの講演の後、枚方から生駒まで歩いたこともあった。

 

 あの時のひとりの時間は、自転車での放浪の続きのように、

 私は、いつも風景の中にいた。

 

 チンチロリーン

 

 山上の別荘以外の拠点として、小さなアパートを生駒駅の近くに借りた。

 雑誌のノンノンのパリの特集にあったイラストマップを壁に貼ってたら、

 少しして、母がやってるサプリメントの仕事で、パリ行きの旅がもらえたので、

 代わりに行ってと言われて、行った。初の外国は19歳のパリだった。

 

 外国に出よう。

 

 そう決めたのは、小学生の頃だった。

 

 大きくなったら何になりたいか、考えてくるという宿題があった。

 母に話したら、「ガイコウカンとか、ええんじゃない?」という。

 

 学校に行って、

 「ガイコウカンになりたい」と言ったら、

 「ガイコウカン」って何?と聞かれた。

 

 答えられなかった。

 

チンチロリーン

 

 高校生の時までの日記は、その1年後、メキシコに行く前に、浜で燃やした。

 その時に付き合ったくれた友達の家が、今、私が田舎に帰った時の宿である。

 

 一つだけ覚えているのは、中学生の時、20歳の自分に手紙を書いたこと。

 

 「もし、あなたが生きていて、20歳になってたら」

 

 そんな文章だった。

 

 生き続けることに自信が持てなかったティーンエイジャーは、

 とりあえず、自分に生きてて欲しいと願いを託した。

 

 20歳どころか、もう半世紀、生きちゃったよ。笑

 しかも、子供までいて、これから、もう半世紀、生きようとしてる。

 

 チンチロリーン

 

 今でも、私はギャンブルはしない。

 自分の人生だけで十分だと思ってるから。

 

 そのリアルギャンブルと、数々の崖っぷちを越えて、今、ここにいる。

 たいして、状況が変わっているとは思えない。

 崖っぷちの高さとか、自分が身につけてる装備とか、

 そんなものがどんどん変わっていくだけで、

 先に進もうとする限り、いつだって、崖っぷちに立たされる時は来る。

 

 チンチロリーン

 

 ロサンゼルスに来て、私が崖っぷちに立たされた時、

 その自分を助けてくれたのは、いつも関西の人たちだった。

 

 何をしてくれた訳ではないが、その人たちが投げてくれた言葉に救われた。

 

 「かっぱちゃんな、人の口には戸は立てられへんねん。

  言わしときゃええねん。

  そんなのにな、振り回されても、誰も責任取ってくれるわけやないで。」

 

  関西弁の、あのイントネーションや言葉にある寛容性とエネルギー。

 

  そんだけで、関西ワールドの洗礼を受けた私は救われる。

  ヒアリングしかでけへんけどな。

  

  チンチロリーン

 

  おごってもらったチンチロリンで勝った2千円をもらって、

  また京橋まで送ってもらう。

 

  「元気でな!」

 

  「ありがとぉー」

 

  タクシーの運ちゃんたちにとっては、洗車屋のお姉ちゃん。

  別に、自分が誰であろうと関係ない。言う必要もない。  

  

  そういう出会いを、あの頃、たくさんした。

  自転車を降りた。

  もう「自転車で日本一周してる18歳の女の子」ではない。

 

名前のないこと。

タイトルを持たないこと。

どこにも属さないこと。

 

 その自由の中で、世界を眺めていた日々。

 

 チンチロリンとサイコロが歌う。

 

 名もなく、地位も、レールもない。

 

 それでも、時間は流れ、サイコロは、前に進む目を出し続け、

 着いたアメリカで、今日は雨音の中で、あの日を思い出す。

 

 徳さん一家、生きてて欲しいなあ。