生まれた時から家出娘だった私が、本当に家を出るまで。
ものごころついた時から、私は、「家を出る」と言ってた。
そう教えてくれたのは、戦前、母の両親が営んでいた呉服屋に、
母の子守として奉公できて、戦後、呉服屋がなくなってからも、我が家にいて、私たちの面倒を見てくれてたおばあちゃんだった。
「わたし、おうち、でる!」ゆうてね、ひろちゃんが、シミーズ姿のまま、
タッタターって外に走って行くんよ。
おばあちゃんは、私のことを「ひろちゃん」と呼んでた。今、思うと、そう呼んでいたのは、おばあちゃんだけだ。
私の一番古い記憶は、このおばあちゃんによって作られている。
シミーズ姿の小さな私が、隣りの文房具屋と、その向こうの家の間の電信柱の影に隠れて、家の方を見ながら、誰かが探しに来るのを待っている光景が、確かに私の中にある。年の頃、3歳くらい。そんな子を放置できるくらい、田舎の町は平和だった。
母は、女学校時代に戦争を経験し、戦後、父親の営む呉服屋が破綻してから、東洋紡に勤め、家族と裏の畑を耕したりしていたが、「こんなことやっていてはいけない」と、美容師になると決めた。ちょうど母の姉の旦那さんが、三井に勤めていたこともあり、鎌倉の三井財閥のお屋敷に仲居さんとして入り、美容師の勉強をしに鎌倉に移り住んだ。
鎌倉から戻った母は、美容院を開業した。おばあちゃんは、戦後、結婚したが、身籠った子供を死産し、働けない夫を持って、路頭に迷っていたらしい。順序は、よくわからないが、お見合いで、小学校教師の父と結婚して、家庭と仕事を持っていた母は、おばあちゃんを、再び、我が家の乳母として、迎え入れた。
うちは、三人兄弟で、私には兄と弟がいる。
が、戸籍上、弟は三男となっている。私と兄の間に、一人、赤ちゃんの時に亡くなった男の子がいたからだ。その子は、浩明と名付けられた。次に生まれた私は、そのまま、その亡くなった兄の名前に美しいをつけて、浩美になる。手抜きな命名だと、名前の由来を聞かされた時に、少ながらずガッカリしたが、妄想癖のある子供は、この亡くなった兄の存在を、まるで双子の魂のように、いつも意識しながら過ごしていたのである。
この魂の兄の存在が、私の本当の家出の時に、かなり重要な役割を果たす。
幼稚園、小学校、中学校と、山歩きをしたり、バスや電車で、ふらふらと当てもなく、どこかの町に出かけたりと、放浪癖は、育てていたものの、家出することはなかった。もしかしたら、考えていたかもしれないけど、実行に移した形跡も、その記憶もないことから、その日々の放浪で、十分満足していたのだと推測する。
ほぼ天真爛漫を地で行ってた「ヒロちゃん」が、変化を起こし始めたのは、中学に入学してからだった。
部活はバスケットボール、成績もそこそこ良くて、担任の新田(しんでん)先生も大好きで、表向き、極めて普通の学校生活を送っていたはずの私に、お弁当を食べた後の午後の授業あたりから、右手が痺れるという症状が発生する。時には腹痛が伴い、保健室に行くこともあった。
その時は、原因がわからなくて、保健室の先生に言われるままに、病院に行く。これが初めての精神科で、ちょっと緊張する。
その時の病名をはっきり覚えてはいないが、多分、自律神経失調症か何かだったと思う。要するにストレスだ。
2年生になってから、この症状は出なくなった代わりに、私は、リストカッターならぬ、手の甲をカッターで切り始める。
何だか苦しくて、たまたま手を切って血を見たら、気持ちがスーッと収まるというのを経験してしまったのだ。その頃から、油絵を習いに行き始め、読み始めた本にも影響されたのだと思う。自分の血の色は、眺めれば眺めるほど、美しく、生きている証を視覚的に実感させてくれた。
ある日、切り過ぎて、母親に見つかり、
「猫にひっかかれた」
と、とんでも嘘をついた。今、母親になってみて、確信する。
母、絶対に、それ、信じてなかったでしょー!
いろいろあったが、中学生活は楽しかった。この頃から、一人で行動することも多くなり、例えば、移動教室の時、みんな仲のいい友達と一緒に教室を移るのに、私は一人だったり、トイレに行くのも一人だったり。まあ、今でも、それって、別に普通じゃんって思うんですけど(笑)日本って、ちょっと違うでしょ?
授業抜け出して、山歩きを始めたのもこの頃で、一度見つかって、勝手についてきた奴らと校長室の前の廊下に正座させられたこともあった。
進路についての担任の先生と保護者との面談で、地元の進学校である岩国高校への合格圏内の成績の私に、先生も両親も、てっきりそこを希望しているかと思っていたところに、「進学せずに、働きたい」「もし学校に行くなら定時制に行きたい」と伝えた。
結局、父親も学校の教師だし、お父さんのためにも高校は行っておいた方がいい(今、書きながら、何でそんなことに納得したんだ、自分!と叫ぶ)という、よくわからない理由で、説き伏せられて、岩国高校に行くことになる。それはそれで、よかったが、今でも、あの時、もう少し粘って、定時制に行ってたら、私の人生は、もっと面白くなっていたと思う。残念。進路に関する唯一の後悔である。
高校で、またバスケットボール部に入る。楽しい仲間がいて、部活も学校も、やっぱり楽しかった。部活は、掛け持ちも出来たので、美術部にも入り、写真愛好会にも席を置いていた。
楽しかったけれども、自分の中で、何かがマグマのように、煮えたぎっていた。
違う。違う。こうじゃない。
飼い慣らされてはいけない。
何で、みんな、黙って受験勉強してんだ?
その頃の日記は、メキシコに行く前に、うちの近くの浜で燃やしてしまったので、
実際、どんなことをほざいていたのか、今では正確にはわからない。
多分、中学生の頃に、体がノーと言い続けたのが、心のノー!になり、ティーンエイジャーには、論理的には理解できなくて、そのマグマが突破口を探していたのかもしれない。
高校三年、めちゃ盛り上がった体育祭が終わり、青春真っ盛りを体験中の真っ最中に、そのマグマが突破口を見つける。
2学期の中間試験の時だった。
何で、こんな勉強しなきゃいけないんだろう?
大学、何で行かなきゃいけないんだろう?
誰が決めたんだ?自分が決めるんじゃないのか?
でも、この学校の、世の中の雰囲気は何だ?
この流れに乗らなきゃ生きていけないのか?
そうじゃない人だっていっぱいいるのに。
もう一度。
この時に、私が心の中でしていた自分との対話の内容は、記録にないので、明確ではないけど、多分、こんなもんだと思う。そして、その時、一つの声が、私の耳に入ってくる。
「あっちの世界を知らなければならない」
え?え?え〜〜?
誰、あんた? です。
でも、妄想少女だった私は、その声の主を作り上げてしまいます。
浩明だ。
その頃は、彼の存在をアキラと呼んでいたりするw。
浩明と浩美ですからね。
あっちの世界って何よ?
でも、この時、その「あっちの世界」がどんな世界であれ、今いるこの世界を別の角度から見るために、違うレイヤーに行かなければならないということを、当時17歳の私は理解した。
私が取った行動は、翌日のテスト、それも、1年の時に担任だった先生の英語の試験で、一度書いた答案を全部消しゴムで消して、白紙で出すことだった。
学校=システムをテストする。
そんな傲慢な気持ちで出した白い答案用紙は、学校側に届けられた。
八幡先生から、家に電話がかかってきて、私は両親に呼び出された。
「何で、そんとなことをしたんね?」
両親が揃って、私に詰問するというシーンは、おそらく小さな頃はあったかもしれないが、大きくなってからは、この時だけ。
「何で学校行かんといけんの?」
「何で進学せんといけんの?」
その時の両親の凍った反応に、私は全てを理解する。
あ、もう、この人たちに聞いてはいけないことなんだ、と。
翌日から、両親と弟は、まだ試験中の私を置いて、父の実家の祝島に、法事で出かけることになっていた。私の様子を心配した母は、美容院のお手伝いのTさんに、後のことを頼んで家を後にする。
両親からの答えを諦めた私は、その後、新たな決意をする。
四国に行こう。
あのお寺に行って、住職さんに会おう。
あの人なら答えを知ってるかも知れない。
私の初めての家出の決意。
その夏に、瀬戸内海一周のツーリングをした時に泊まったユースホステル。
新長谷寺
当時は、まだ民泊もなく、若者の宿として、ユースホステルが広く利用されていた頃で、高校3年の夏、実家のある岩国から国道2号線を上って三原、尾道を通って、笠岡のユースホステルに泊まった記憶があります。そこから、岡山へ向かい、小豆島、高松、金毘羅さん、そして、四国最終日に泊まった愛媛のユースホステル新長谷寺。
昔は、ユースホステルのペアレンツさんが、夕食後に、みんなを集めて、歓談やちょっとしたミーティングをするというのがあって、この新長谷寺では、住職さんがミーティングで、達磨さんと武帝の禅問答について教えてくれたのです。
この禅問答の全文を、実は、私は、今日、初めて見ました。(驚!)
この長い文を、新長谷寺の住職さんは、宿に泊まっていた若者たちに、分かりやすく、禅問答でもって問いかけてきたのです。
「名高い僧として、武帝に呼ばれた達磨さんに、武帝は、こんなことを尋ねはった」
武帝:お前は誰だ?
「達磨さんは答えはった。二文字で」
不 「 ? 」
「さて、この二つめの文字。わかる人はおるかな?」
私は手を挙げた。倫理社会の教科書を、読み物として、授業の進み具合そっちのけで完読し、教科書に出てくる哲学者や宗教家の本を、片っ端から図書館で探して読んでいた私が、一番、好きだったのは、中国の老師や竹林の七賢人だった。仏教の無常観も馴染み深かった。答えは、おのずと出た。
「知る、という字ですか?」
住職さんの顔が、ゆっくりとほころぶ。
「そうや。知らん!って言いなさった」
この禅問答のミーティングのことを思い出すと、今でも、何か、気持ちが落ち着く。
どんなに高名な僧であろうと、どんなに成功していようと、自分が誰であろうと、何者でないと思っていようと、この答えに、私たちはいつでも戻ることが出来る。全ては空であるから。
学校をテストして、白紙で出して、学校から電話が来て、両親に問い詰めて、答えが出なくて、答えを探している時に、思い出したのが、このお寺の住職さんで、その理由が、「知らん!」という答えの禅問答だというのも、妙な話だ。
私の家出の決行日は、10月25日の藤生駅発の一番電車と決まった。
折しも、季節外れの台風で、祝島から柳井への定期船ことしおが欠航。
家族は、後1日は戻ってこない。三原から四国への便は出てるだろうかという不安はあったが、天気を見ると、台風がちょうど通過して、大丈夫そうな様子。
インターネットのない時代の家出は、いろんな意味で、予測能力を要した。
あー、そうだ。思い出した!
祝島に行かなかった理由は、その当時、新聞配達をしてたからだ。
新聞配達、家出する前にやめたか、そんなことまで、気をくばる余裕がなかったのか、とにかく、お金があったのは、その新聞配達のおかげで、どちらにしても、家出で、新聞配達を止めたのは間違いない。新聞屋のおばちゃんに謝りに行ったのは覚えている。
山陽本線の上り、朝早い電車には、大きな行商の荷物を持ったおばちゃん達もいた。4人掛けの相席で、一人のおばちゃんが、
「食べなさい」
と言って、みかんをくれた。
泣きそうになった。
高慢でアタマでっかちな高校生は、いわゆる世間の普通の人を、どこかで馬鹿にしていた。平凡である事、世の中の流れに巻かれてしまう人たち、何の教養もない、考えもしない人たち。
現代国語の授業で、J先生が話していた事を思い出す。
「みかんでも、と見ず知らずの人に差し出す」
そんな触れ合いの中にある日本の良さを、先生は話した。
自分は、その日本のシステムを嫌い、こうして、家出までして、何をするのか?
何を求めているのか?
この目の前にいるおばちゃんは、私が考えていることも、家出の真っ最中だということも、本当は、そんなおばちゃんの生き方も、もしかしたら否定しているということも知らないで、みかんを勧めてくれている。
「ありがとうございます」
と受け取った私の顔は、少しこわばっていたかも知れない。
でもね。
今、自分がこの年になって、あの電車の中でのことを思い出すと、あのおばちゃん、全部わかってたんだと思う。これは、家出から戻って、学校に帰った時にも気づいたこと。
大人って、そういうこと、わかってる人たちのことなんだ。
そして、そっと見守ってくれたり、道標になるものを差し出してくれたり。
私は、黙ってみかんを食べる。
美容院という、商売人の家に生まれた私は、本来なら、こういう時に、社交辞令的なおしゃべりもできちゃうのだが、その日は違った。沈黙していることが苦痛だった。
今治行きのフェリーが出る三原駅に到着。
台風の後の、雨を含まない風がビュービューと吹いている。
出航できるかどうか、待合室の乗客たちと一緒に待つ。
空が明るくなる。出航だ。
いつもは穏やかな瀬戸内海が荒れている。
この同じ海を、今、うちの家族は、祝島から本土に向かっているんだなあ。
考えるのをやめよう。心がヒリヒリする。
電車に乗る。
今治から、伊予寒川まで。
通学の中学生や高校生が乗ってくる。
私だけ私服で、思わず、自分の立場を正当化しようとする。
学校休んで病院に行くところとか、学校が休みとか。
「世間」という枠から外れた自分を、四国という知らない土地の中で、しみじみと認識する。もう戻れない。
そのアウエイ感に慣れた頃、電車は、瀬戸内海に向かって開けた平野をトコトコと走り始める。学生たちの通学時間も過ぎ、少し静かになった車内。
外を眺めていると、
「虹だ。。。」
それも、何重にもなった大きな虹が、台風が去った四国の平野に弧を描く。
それは、家出という選択をした自分を、まるで誰かが応援してくれてるようなタイミングだった。
「もう’’あっちの世界”に来たのかな。それとも、これからなのかな。」
一線を超えてしまった現実は、不安よりも、もう進むしかないという勇気を起こし、これから訪ねる新長谷寺の住職さんに会うことへの期待に変わる。
17歳の秋。自分で決めた。
自分で、自分の人生を決めていくということ。
レールを降りた日。