ホームレスの翼〜18歳の自転車放浪
17歳で家出した。
向かった四国の新長谷寺では、住職さんが暖かく迎えてくれた。
人の親切が痛かった。でも、どうしても、生きたかった。自分を生きたかった。
その生き方がわからなくて、誰にも聞けなくて、駆け込んだお寺。
翌朝、住職さんが、こたつのある部屋に、私を呼んだ。
「ここに行ってきなさい」
紙に書いて、差し出された住所と連絡先。
「川之江学園」と書いてあった。
「園長先生には、話してあるから」
電車とバスを乗り継いで行ったそこは、重度障害を持つ子供たちの施設だった。
職員の方が、何も言わずに、笑顔だけで迎えてくれて、1日を過ごす。
たくさんの自閉症の子たちの中で、私は居場所を見つける。
誰にも邪魔されずに、自分でいる場所があった。
施設の中の空気は、別次元だった。
生きててもいい。このまま、生きてていい。
自分が何者かわからなくても、生き方がわからなくても、生きてていい。
達磨さんが、武帝に「お前は誰だ?」と聞かれて、「知らん」と答えた。
その答えを私もつぶやく。知らん。
住職さんから連絡を受けた母が、泣き腫らした目で迎えに来て、「おうち、出る!」と叫んで、何度も家を飛び出した娘の最初で最後の家出は3日で終わる。
その後、とりあえず、申し込んでいた今でいうセンター試験を受け、東京芸大の油絵科も受け、予想通り落ちた。高校は卒業したが、卒業式に出たかどうかさえ記憶にない。
目の前には、地図もレールもない時間があった。
うちの自転車ギークの兄貴が、高校卒業した時に、世界一周したいと親に言って、反対されてたおかげか、四国への家出の効果か、私が自転車で日本一周したいと言った時、両親は何も言わなかった。日本ならまだいいかと思ったのか、どうせ、反対してもやるに違いないと思ったのか、もう今はいない両親には聞けないが、今、娘たちを持つ身になって、この人たちの懐の大きさ、見守っていてくれたことに、私は感謝してもしきれない。親の愛情というのは、こういうものなのだというのを、身をもって教えてくれた両親、今も、思い返す度に、教えられることがたくさんある。
自転車の溶接を勉強するために、神奈川県の職業訓練大学校に通っていた兄のところに、しばらく居候して、自転車を作ってもらう。赤いランドナー。前輪に二つのバッグとフロントバッグ、そして、寝袋を後ろにくくりつける。5月の終わり、私の旅は、兄貴がいた相模原から始まった。
1. 交差点で見つけたもの
写真は、ロサンゼルス空港の近くの我が家への家路、フリーウエイ105。
405から105へのカーブを曲がると、夕焼けが見えてくる。
この間、その夕焼け空に、翼のような雲。
「ペガサスの翼だ」
あの光景が蘇った。
(初めてYoutubeで見ましたが、すごい80年代ぶりですねw)
この歌を、私は、雨の降る中、自転車で走りながら、歌ってた。おぼつかない歌詞の記憶、サビのペガサスのとこばかりを繰り返す。
東京を出発してから、初めての本格的な雨は、ホームレスにはちょうどいいシャワーである。梅雨が始まる兆しの雨、濡れてもそんなに寒くない。濡れた路面も、いい具合に滑ってくれて、ペダルが軽い。気持ちいい。
日光へ向かう途中、陸橋を超えて、降りたところに、交差点があった。水上という標識も見える。歌っていたせいで、道順が頭から消えていた。
どっちへ行くんだっけ?
と、思ったところで、ハッとした。
そうか。どっちに行ってもいいんだ。
瞬間、背中に翼が生えた。
選択という自由が、その一瞬、自分の手に落ちてきた。
自由は、そこにあった。自分の中にあった。
それを知らなかったのは、私だけだった。
雨の中で、走りながら、泣き笑いする自分がいた。
自由は、交差点にある。
2. 風景でいたい
自転車の旅から戻ってきてから、東京に行った。
岩国の母の友人のクレちゃんの家に、ちょっとお世話になる。
ある日、クレちゃんが、
「ねえ、ちょっと、その自転車の旅のこと、文章に書かない?」
と聞いてきた。何かの雑誌に載せるらしかった。
承諾して、書き始めた文はボツになった。
クレちゃんが期待していたような内容じゃなかったらしい。
その内容を、今、思い出して、あの時の自分が書こうとしてたことを思い出す。
旅をしている間、「18歳で一人で日本一周している女の子」だった。
時々、宿などで出会う人に「すごいねー」「勇気があるね」とか言われる。
クレちゃんも、同じようなことを言った。
「あなたは、その旅をしたことで、何かを証明してしまったのだから」って。
だから、それにふさわしい文章を書いて欲しかったのだと思う。
今、時が経って、その時の自分に、私は寄り添ってみる。
自転車で旅をしたのは、誰かに自分を証明するためじゃなかったんだよね。
私が私であり、世界の一部であり、その世界が私の一部であり、
そういうのを、感じたかったんだ。
人間には、名前がある。日々の生活の中でも、役割がある。
旅していた時の私には、その名前が必要なかった。
誰にでもなれた。何者でもなかった。
私は風であり、その町を通り抜ける音であり、立ち止まって、時間を共有するお客であり、会話であり、日常の中にある風景の一部であった。名前のない、草花や石ころや、そんなものと同列でよかった。
いつか自分も、どこかに定住して、名前やタイトルを持つかも知れない。
でも、それは、自分が決めよう。多分、私は、そんなことを思ってた。
北海道で梅雨を逃れ、8月からまた本州の日本海岸を走り始めた頃。
新潟の駅の近くの万代橋の公園のブランコで寝てたことがある。
走りにもやっと慣れてきて、1日の走行距離が150キロから200キロの日が続いて、走ることが楽しくて、宿を探す時間も惜しくて、野宿した。
朝起きたら、そのブランコの下に、ラジオが置かれていて、
お年寄りが、私の方をみんな向いて、ラジオ体操をしてた。
誰も何も言わずに、手足を動かしていた。
「もしかしたら、透明人間になってる、私?」
でも、そのお年寄りたちは、ラジオ体操が終わると、普通に話しかけてくれて、
私を特別に扱わなかったんだよね。
私は、今、誰かの誰かになって、家出が成立しないくらい、自由な家族がいて、
またいつか、道端の草花や、河原の石ころと、同じような存在に自分がなれる
日が来るだろうかと思いながら、これを書いてる。
3. 天と地をつなぐ未来
陸ちゃんに会ったのは、屈斜路湖の湖畔で開催されてた町のお祭りだった。
クレープを売ってた。眺めていたら、話しかけてきた。
「手伝うか?」と言われたので、手伝った。
「食べるか?」と聞かれたので、一緒にご飯を食べた。
「車で寝るか?」と言うので、泊まった。
山口組の人たちらしく、食事の時に、ハジキの話をしていた。
陸ちゃんたちとは、北海道にいる間に、3回くらい会った。盛岡の人で、今は暴力だんだけど、一人は、盛岡の進学校の出身で、頭がいいんだと言ってた。
確か、釧路で会って、そこから札幌に戻るというので、一緒にトラックに乗っていくことにした。最後に別れたのは、札幌のホテルのロビーだった。
たった4ヶ月の旅だったけど、本当にいろんな人に会った。
札幌のロビーで、陸ちゃんたちと別れる時に、私は予感した。
世界の広さを。自分が、まだその入り口にしかいないことを。
そして、自分は、この世界にいる多様な人たちと関わっていくということを。
予感は、戦慄のようでもあり、まるで何かに挑む前の武者震いのようでもあり。
その後、陸ちゃんとは、電話で2回くらい話した。
ガンを患っていると言った。
ロサンゼルスのミツワというマーケットで、イベントの仕事をしている時、
陸ちゃんのことを知ってるという業者の人に出会った。
「あぁ、あの東北の、クレープやってた人でしょう?
亡くなられたって聞きましたよ。」
カタギな18歳を拾ってくれたヤクザのおじさんは、今でも私の風景の中にいる。
結局、自転車での旅は、途中から膝の関節炎を患い、途切れ途切れになって、九州入りした後は、普通に残りの日本を旅した。
その後、母の伝手で、生駒山の山頂近くの別荘の管理人と、その別荘を持ってる会社の出版部のお手伝いをすることになる。放浪に終止符を打つ。
ここから、ディープな関西ワールドに突入することになろうとは、19歳になったばかりの私には予想できなかった。
行きまっせ、関西は生駒!芸妓さんの町、宝山寺!