基地ログ!

旅するカッパのチャノマハウス。時々開店、河童バー。

生まれた時から家出娘だった私が、本当に家を出るまで。

 ものごころついた時から、私は、「家を出る」と言ってた。

そう教えてくれたのは、戦前、母の両親が営んでいた呉服屋に、

母の子守として奉公できて、戦後、呉服屋がなくなってからも、我が家にいて、私たちの面倒を見てくれてたおばあちゃんだった。

 

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「わたし、おうち、でる!」ゆうてね、ひろちゃんが、シミーズ姿のまま、

タッタターって外に走って行くんよ。

 

おばあちゃんは、私のことを「ひろちゃん」と呼んでた。今、思うと、そう呼んでいたのは、おばあちゃんだけだ。

 

私の一番古い記憶は、このおばあちゃんによって作られている。

 

シミーズ姿の小さな私が、隣りの文房具屋と、その向こうの家の間の電信柱の影に隠れて、家の方を見ながら、誰かが探しに来るのを待っている光景が、確かに私の中にある。年の頃、3歳くらい。そんな子を放置できるくらい、田舎の町は平和だった。

 

母は、女学校時代に戦争を経験し、戦後、父親の営む呉服屋が破綻してから、東洋紡に勤め、家族と裏の畑を耕したりしていたが、「こんなことやっていてはいけない」と、美容師になると決めた。ちょうど母の姉の旦那さんが、三井に勤めていたこともあり、鎌倉の三井財閥のお屋敷に仲居さんとして入り、美容師の勉強をしに鎌倉に移り住んだ。

 

鎌倉から戻った母は、美容院を開業した。おばあちゃんは、戦後、結婚したが、身籠った子供を死産し、働けない夫を持って、路頭に迷っていたらしい。順序は、よくわからないが、お見合いで、小学校教師の父と結婚して、家庭と仕事を持っていた母は、おばあちゃんを、再び、我が家の乳母として、迎え入れた。

 

うちは、三人兄弟で、私には兄と弟がいる。

が、戸籍上、弟は三男となっている。私と兄の間に、一人、赤ちゃんの時に亡くなった男の子がいたからだ。その子は、浩明と名付けられた。次に生まれた私は、そのまま、その亡くなった兄の名前に美しいをつけて、浩美になる。手抜きな命名だと、名前の由来を聞かされた時に、少ながらずガッカリしたが、妄想癖のある子供は、この亡くなった兄の存在を、まるで双子の魂のように、いつも意識しながら過ごしていたのである。

 

この魂の兄の存在が、私の本当の家出の時に、かなり重要な役割を果たす。

 

幼稚園、小学校、中学校と、山歩きをしたり、バスや電車で、ふらふらと当てもなく、どこかの町に出かけたりと、放浪癖は、育てていたものの、家出することはなかった。もしかしたら、考えていたかもしれないけど、実行に移した形跡も、その記憶もないことから、その日々の放浪で、十分満足していたのだと推測する。

 

ほぼ天真爛漫を地で行ってた「ヒロちゃん」が、変化を起こし始めたのは、中学に入学してからだった。

部活はバスケットボール、成績もそこそこ良くて、担任の新田(しんでん)先生も大好きで、表向き、極めて普通の学校生活を送っていたはずの私に、お弁当を食べた後の午後の授業あたりから、右手が痺れるという症状が発生する。時には腹痛が伴い、保健室に行くこともあった。

 

その時は、原因がわからなくて、保健室の先生に言われるままに、病院に行く。これが初めての精神科で、ちょっと緊張する。

 

その時の病名をはっきり覚えてはいないが、多分、自律神経失調症か何かだったと思う。要するにストレスだ。

 

 2年生になってから、この症状は出なくなった代わりに、私は、リストカッターならぬ、手の甲をカッターで切り始める。

 

 何だか苦しくて、たまたま手を切って血を見たら、気持ちがスーッと収まるというのを経験してしまったのだ。その頃から、油絵を習いに行き始め、読み始めた本にも影響されたのだと思う。自分の血の色は、眺めれば眺めるほど、美しく、生きている証を視覚的に実感させてくれた。

 

 ある日、切り過ぎて、母親に見つかり、

「猫にひっかかれた」

 と、とんでも嘘をついた。今、母親になってみて、確信する。

 

 母、絶対に、それ、信じてなかったでしょー!

 

 いろいろあったが、中学生活は楽しかった。この頃から、一人で行動することも多くなり、例えば、移動教室の時、みんな仲のいい友達と一緒に教室を移るのに、私は一人だったり、トイレに行くのも一人だったり。まあ、今でも、それって、別に普通じゃんって思うんですけど(笑)日本って、ちょっと違うでしょ?

 

 授業抜け出して、山歩きを始めたのもこの頃で、一度見つかって、勝手についてきた奴らと校長室の前の廊下に正座させられたこともあった。

 

 進路についての担任の先生と保護者との面談で、地元の進学校である岩国高校への合格圏内の成績の私に、先生も両親も、てっきりそこを希望しているかと思っていたところに、「進学せずに、働きたい」「もし学校に行くなら定時制に行きたい」と伝えた。

 

 結局、父親も学校の教師だし、お父さんのためにも高校は行っておいた方がいい(今、書きながら、何でそんなことに納得したんだ、自分!と叫ぶ)という、よくわからない理由で、説き伏せられて、岩国高校に行くことになる。それはそれで、よかったが、今でも、あの時、もう少し粘って、定時制に行ってたら、私の人生は、もっと面白くなっていたと思う。残念。進路に関する唯一の後悔である。

 

 高校で、またバスケットボール部に入る。楽しい仲間がいて、部活も学校も、やっぱり楽しかった。部活は、掛け持ちも出来たので、美術部にも入り、写真愛好会にも席を置いていた。

 

 楽しかったけれども、自分の中で、何かがマグマのように、煮えたぎっていた。

 

 違う。違う。こうじゃない。

 飼い慣らされてはいけない。

 何で、みんな、黙って受験勉強してんだ?

 

その頃の日記は、メキシコに行く前に、うちの近くの浜で燃やしてしまったので、

実際、どんなことをほざいていたのか、今では正確にはわからない。

 

 多分、中学生の頃に、体がノーと言い続けたのが、心のノー!になり、ティーンエイジャーには、論理的には理解できなくて、そのマグマが突破口を探していたのかもしれない。

 

 高校三年、めちゃ盛り上がった体育祭が終わり、青春真っ盛りを体験中の真っ最中に、そのマグマが突破口を見つける。

 

 2学期の中間試験の時だった。

 

 何で、こんな勉強しなきゃいけないんだろう?

 大学、何で行かなきゃいけないんだろう?

 誰が決めたんだ?自分が決めるんじゃないのか?

 でも、この学校の、世の中の雰囲気は何だ?

 この流れに乗らなきゃ生きていけないのか?

 そうじゃない人だっていっぱいいるのに。

 

 もう一度。

 この時に、私が心の中でしていた自分との対話の内容は、記録にないので、明確ではないけど、多分、こんなもんだと思う。そして、その時、一つの声が、私の耳に入ってくる。

 

 「あっちの世界を知らなければならない」

 

え?え?え〜〜?

 

 誰、あんた? です。

 

 でも、妄想少女だった私は、その声の主を作り上げてしまいます。

 

 浩明だ。

 

その頃は、彼の存在をアキラと呼んでいたりするw。

浩明と浩美ですからね。

 

 あっちの世界って何よ?

 

 でも、この時、その「あっちの世界」がどんな世界であれ、今いるこの世界を別の角度から見るために、違うレイヤーに行かなければならないということを、当時17歳の私は理解した。

 

 私が取った行動は、翌日のテスト、それも、1年の時に担任だった先生の英語の試験で、一度書いた答案を全部消しゴムで消して、白紙で出すことだった。

 

 学校=システムをテストする。

 そんな傲慢な気持ちで出した白い答案用紙は、学校側に届けられた。

 

 八幡先生から、家に電話がかかってきて、私は両親に呼び出された。

 

 「何で、そんとなことをしたんね?」

 両親が揃って、私に詰問するというシーンは、おそらく小さな頃はあったかもしれないが、大きくなってからは、この時だけ。

 

 「何で学校行かんといけんの?」

 「何で進学せんといけんの?」

 

 その時の両親の凍った反応に、私は全てを理解する。

 

 あ、もう、この人たちに聞いてはいけないことなんだ、と。

 

 翌日から、両親と弟は、まだ試験中の私を置いて、父の実家の祝島に、法事で出かけることになっていた。私の様子を心配した母は、美容院のお手伝いのTさんに、後のことを頼んで家を後にする。

 

 両親からの答えを諦めた私は、その後、新たな決意をする。

 

 四国に行こう。

 あのお寺に行って、住職さんに会おう。

 あの人なら答えを知ってるかも知れない。

 

 私の初めての家出の決意。

 

 その夏に、瀬戸内海一周のツーリングをした時に泊まったユースホステル。

 

 新長谷寺

 

 当時は、まだ民泊もなく、若者の宿として、ユースホステルが広く利用されていた頃で、高校3年の夏、実家のある岩国から国道2号線を上って三原、尾道を通って、笠岡のユースホステルに泊まった記憶があります。そこから、岡山へ向かい、小豆島、高松、金毘羅さん、そして、四国最終日に泊まった愛媛のユースホステル新長谷寺。

 

 昔は、ユースホステルのペアレンツさんが、夕食後に、みんなを集めて、歓談やちょっとしたミーティングをするというのがあって、この新長谷寺では、住職さんがミーティングで、達磨さんと武帝の禅問答について教えてくれたのです。

 

達磨 - Wikipedia

 

この禅問答の全文を、実は、私は、今日、初めて見ました。(驚!)

 

この長い文を、新長谷寺の住職さんは、宿に泊まっていた若者たちに、分かりやすく、禅問答でもって問いかけてきたのです。

 

「名高い僧として、武帝に呼ばれた達磨さんに、武帝は、こんなことを尋ねはった」

 

 武帝:お前は誰だ?

 

「達磨さんは答えはった。二文字で」

 

 不 「 ? 」

 

「さて、この二つめの文字。わかる人はおるかな?」

 

 私は手を挙げた。倫理社会の教科書を、読み物として、授業の進み具合そっちのけで完読し、教科書に出てくる哲学者や宗教家の本を、片っ端から図書館で探して読んでいた私が、一番、好きだったのは、中国の老師や竹林の七賢人だった。仏教の無常観も馴染み深かった。答えは、おのずと出た。

 

「知る、という字ですか?」

 

住職さんの顔が、ゆっくりとほころぶ。

 

「そうや。知らん!って言いなさった」

 

この禅問答のミーティングのことを思い出すと、今でも、何か、気持ちが落ち着く。

 

どんなに高名な僧であろうと、どんなに成功していようと、自分が誰であろうと、何者でないと思っていようと、この答えに、私たちはいつでも戻ることが出来る。全ては空であるから。

 

学校をテストして、白紙で出して、学校から電話が来て、両親に問い詰めて、答えが出なくて、答えを探している時に、思い出したのが、このお寺の住職さんで、その理由が、「知らん!」という答えの禅問答だというのも、妙な話だ。

 

私の家出の決行日は、10月25日の藤生駅発の一番電車と決まった。

 

折しも、季節外れの台風で、祝島から柳井への定期船ことしおが欠航。

家族は、後1日は戻ってこない。三原から四国への便は出てるだろうかという不安はあったが、天気を見ると、台風がちょうど通過して、大丈夫そうな様子。

 

インターネットのない時代の家出は、いろんな意味で、予測能力を要した。

 

あー、そうだ。思い出した!

祝島に行かなかった理由は、その当時、新聞配達をしてたからだ。

新聞配達、家出する前にやめたか、そんなことまで、気をくばる余裕がなかったのか、とにかく、お金があったのは、その新聞配達のおかげで、どちらにしても、家出で、新聞配達を止めたのは間違いない。新聞屋のおばちゃんに謝りに行ったのは覚えている。

 

山陽本線の上り、朝早い電車には、大きな行商の荷物を持ったおばちゃん達もいた。4人掛けの相席で、一人のおばちゃんが、

 

「食べなさい」

 

と言って、みかんをくれた。

 

泣きそうになった。

 

高慢でアタマでっかちな高校生は、いわゆる世間の普通の人を、どこかで馬鹿にしていた。平凡である事、世の中の流れに巻かれてしまう人たち、何の教養もない、考えもしない人たち。

 

現代国語の授業で、J先生が話していた事を思い出す。

「みかんでも、と見ず知らずの人に差し出す」

そんな触れ合いの中にある日本の良さを、先生は話した。

 

自分は、その日本のシステムを嫌い、こうして、家出までして、何をするのか?

何を求めているのか?

 

この目の前にいるおばちゃんは、私が考えていることも、家出の真っ最中だということも、本当は、そんなおばちゃんの生き方も、もしかしたら否定しているということも知らないで、みかんを勧めてくれている。

 

「ありがとうございます」

 

と受け取った私の顔は、少しこわばっていたかも知れない。

 

でもね。

 

今、自分がこの年になって、あの電車の中でのことを思い出すと、あのおばちゃん、全部わかってたんだと思う。これは、家出から戻って、学校に帰った時にも気づいたこと。

 

 大人って、そういうこと、わかってる人たちのことなんだ。

 そして、そっと見守ってくれたり、道標になるものを差し出してくれたり。

 

私は、黙ってみかんを食べる。

美容院という、商売人の家に生まれた私は、本来なら、こういう時に、社交辞令的なおしゃべりもできちゃうのだが、その日は違った。沈黙していることが苦痛だった。

 

今治行きのフェリーが出る三原駅に到着。

台風の後の、雨を含まない風がビュービューと吹いている。

出航できるかどうか、待合室の乗客たちと一緒に待つ。

 

空が明るくなる。出航だ。

 

いつもは穏やかな瀬戸内海が荒れている。

この同じ海を、今、うちの家族は、祝島から本土に向かっているんだなあ。

考えるのをやめよう。心がヒリヒリする。

 

電車に乗る。

今治から、伊予寒川まで。

 

通学の中学生や高校生が乗ってくる。

私だけ私服で、思わず、自分の立場を正当化しようとする。

学校休んで病院に行くところとか、学校が休みとか。

「世間」という枠から外れた自分を、四国という知らない土地の中で、しみじみと認識する。もう戻れない。

 

 そのアウエイ感に慣れた頃、電車は、瀬戸内海に向かって開けた平野をトコトコと走り始める。学生たちの通学時間も過ぎ、少し静かになった車内。

 

 外を眺めていると、

 

 「虹だ。。。」

 

 それも、何重にもなった大きな虹が、台風が去った四国の平野に弧を描く。

 

 それは、家出という選択をした自分を、まるで誰かが応援してくれてるようなタイミングだった。

 

 「もう’’あっちの世界”に来たのかな。それとも、これからなのかな。」

 

 一線を超えてしまった現実は、不安よりも、もう進むしかないという勇気を起こし、これから訪ねる新長谷寺の住職さんに会うことへの期待に変わる。

 

 17歳の秋。自分で決めた。

 自分で、自分の人生を決めていくということ。

 レールを降りた日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の「まいにち」をつくる人たち

 「あなたは何をする人ですか?」

 

と聞かれたので、私は、私の日々を一緒に過ごす人や、一緒に過ごしたいと思う人や、私の世界を一緒に作ってくれる人たちの写真を並べてみることにしました。

 

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去年の11月のAirbnb Openというイベントがあって、それに参加した日本から来たAirbnbのホストさんが、共通の友人を通して、我が家に遊びに来てくれました。

 

その時に、他のホストさんたちもやってきて、私たちは、カズンズというグループを作りました。民泊のAirbnbを始め、もっとシェアリングのコンセプトを広めて、住みやすい世界を作っていこうといういうことで。

 

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巨大ポッキーの箱で作ったカズンズの看板。Airbnb Openの時に、持って歩く。

 

「カズンズ」というネーミングは、友達以上、家族未満、つながっているけど、いっつも一緒じゃなくてもいい、でも、時々会ったりする、ちょうどいい関係ということと、そのつながりで、いざという時は、お互い助け合ったり、協力しあったり、できたらいいね!というイメージでつけました。

 

そして、カズンズとして、日本の稼業のお手伝いをするネットワークを作ったり、

継いでくれる人のいない第一次産業などの問題点を調べて、できることをしてみようということで、まず、最初の企画として、牡蠣ツアーというのを立ち上げました。

 

ちょうど、共通の友人を持つ彼女の友人で、うちから車で10分のところに住んでいるマリちゃんが、牡蠣が大好きで、牡蠣ツアーを企画することにしたのです

 

で、たまたま二人が気になっていたトーランスという町にできた牡蠣ショップを訪ねて行ったら、なんと、私たちにもお手伝いできることがたくさん見つかったのです。

 

 このトップの写真は、昨日の日曜日、そのお店が出店しているイベントで、マリちゃんと、オーナーのマークさんが牡蠣をシャックしているところです。最初に持って行った牡蠣がお昼過ぎには完売するという、大盛況ぶり!

 

二人とも、とても素敵な、牡蠣Loverです。

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次の写真は、うちのゲスト(民泊やってます)です。

 

アディは、某IT系の大企業のセールスマン。会社に毎日通うのではなく、いつも、ネットで仕事してます。

 

去年の11月から滞在している彼は、陽気で、スノボーしに週末は山に行ったり、毎日ジムに通ったり、時間のある時は、スタートアップコンテストなど、ネットで見つけた面白そうなイベントに参加したり、クラブに行ったり、趣味も多彩で、元気な青年です。

 

今日は、そのアディの誕生日。

 

ジムの帰りに、大量の健康食品を買ってきて、撮影中。

 

"This is my birthday present for me! "

 

今日は、昨日まで長期滞在していた、ニューヨークのジャズミュージシャンの使ってた部屋に移ります。

 

”You got a new room for new you! Sounds good?"

 

彼がリクエストしていた部屋を提供するのが、私たちからのプレゼント。

 

そのジャズミュージシャンも常連さんで、サーフィンしにウチに定期的に来るようになりました。次回来る時は、ピアノのある家かレストランで、彼のライブを企画しようと話しています。

 

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Happy Birthday, Adi!

 

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私がやってる民泊「チャノマハウス」には、毎週金曜日に、ロサンゼルスの人気フードトラックKOGIがやってきます。

なんで?という問いに対する一番短い答えは、フードトラックが好きだから。w

 

一番長い答えは、私もフードトラックをやってて、そもそも、このチャノマハウスの物件を見つけたのも、自分のフードトラックを置きたかったから。私のフードトラックは、ストリート復活を目指して、今、修理を待ってるところです。

 

なんでフードトラック?と、突っ込まれると、「移動できるものが好きだから」と「好き」で答えてもいいんですが、それでは、多分、私が他のことをやってる理由が分からないと、ますます、混乱する人もいるようです。

 

私は、コミュニティをデザインしたいんです。

もしかしたら、自分がずっと住むかも知れない、このロサンゼルスという町を、もっと住みやすくしたいと思っているのです。

 

ロサンゼルスは、車社会です。この町に住んでる日本人の多くは、日本食は、主にサウスベイというところにある日系のマーケットに買い物に行きます。でも、年をとったり、体を壊したりすると、誰かの運転に頼らなければならなくなります。レストランも同じです。

 

キッチンごと移動できるフードトラックは、使い方によっては、その問題を解決できるかもしれません。

これは、フードトラックを始めた理由のほんの一つですが、私の中には、そんな妄想がいつも駆け巡っています。

 

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 先週の金曜日は、いつものKOGIのトラックが故障して、別のトラックでやってきたので、バナーをかけて、わかるようにしてます。マルコ、いつもありがとう!

 

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先週の木曜日、チャノマハウスのキッチンに集まってくれたお友達。

今度、お手伝いすることになった、牡蠣のトラック The Jolly Oyster のメニューを一緒に考えてくれてます。

 

チャノマハウスでは、誰か日本からお客さんが来たり、誰かが美味しいものをシェアしたい時などに、「河童バー」ということで、集まることがあります。私の昔から使ってる、ネットでのハンドルネームが「かっぱ@ロス」だったりするので、その名前になりました。

 

去年、何回かやってみて思ったのは、確かに楽しいんだけど、私には物足りない。

何が物足りないかっていうのを考えた時に、

 

「未来をじっくり語れない!」

 

というのが、その原因だと気付きました。

 

ので、今年からは、未来のことを話せるメンツで、建設的なテーマで開催します。

人数を集めることは、いつでもできるし、集まるだけ、楽しいだけの宴会なら、いろんなところでやってるので、河童バーは、かっぱの都合で、未来を作る場にします。(宣言!)

 

この日は、牡蠣の開け方(シャック!)を、マリちゃんがみんなに教えて、有意義な時間となりました。また、ひろ子さんをはじめ、お料理得意な人たちの意見や、アメリカ永住組の貴重な意見がたくさん頂けて、ありがたかったです〜!次のイベントもよろしくお願いします!

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牡蠣ラーメン、牡蠣焼きそば、もちろん生牡蠣も食べて、牡蠣フライまではできなかったけど、お腹いっぱいになりました。牡蠣焼きそばは、土曜日のLa Canadaのファーマーズマーケットで好評でした!

 

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私の住んでるロサンゼルス空港の南の小さな町、エルセグンドは、この写真のマンハッタンビーチと空港の間にあります。

 

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このエルセングンドという町に引っ越すのを決めたのは、カービー、私の旦那様です。

上の娘が小学校に上がる前に、彼は、それまで住んでいたパサデナの友達の家を出て、ビーチの近くに住みたかったようで(サーファーです)、自分で色々調べていたようです。

 

「学校もいいし、ロサンゼルスで一番犯罪率が低いから」

 

と、一度、見に行こうと、見に行きました。

 

カービーは、日系4世で、ロサンゼルス生まれ、ロサンゼルス育ち。

私たちが知り合ったのは、80年代半ばの東京。バブルがはじけ始めた頃でした。

 

今でこそ、Husbandだと人に紹介するのも、慣れてきましたが、私たちは、ずっと友達みたいな関係です。

 

結婚しようと思って、結婚したわけでもないので、本当に、「家族」になるまでに、ずいぶん時間がかかりました。

 

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エルセグンドの高校は、テレビドラマ「OC」をはじめ、多くの映画の撮影現場として使われている美しいキャンパスです。確かに安全そうな町で、住みやすそうでした。

 

空港を見渡せる坂の上で、空港をさしながら、カービーが言いました。

当時、私はまだアメリカでの運転免許も持っていなくて、パサデナで通ったコミュニティカレッジにも、自転車で行ってたのです。

 

「ほら、ここなら、喧嘩して、日本に帰りたくなっても、すぐに飛行機に乗って帰れるだろ?」

 

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その時のカービーの顔を、私は覚えてません。

 

半分冗談で、半分本気だな、こいつ。ってことだけは伝わりましたけど。(^^)

 

私は、その後、車の免許も取って、日本にも何ども行ってます。

でもなぜか、喧嘩して帰ったことはありません。

 

今は、もう両親もいないし、帰る場所も、ほぼないに等しいのだけど、

その前から、私のホームは、カービーがいるところになってました。

 

こんな人たちと一緒に、私は、まいにちの世界を作っています。

もっと沢山、登場人物はいますが、とりあえず、ここ一週間のメインの登場人物。

 

え?まだ、私が何をする人かわからないって?

 

私は、自分の心の平和を保ちながら、未来を建設するための毎日を作る人です。

 

そう努力しています。

 

そのために、やった方がいいなと思うことは、優先順位をつけながら、何でもやっちゃうというスタンスです。だから、「これ!」ってひとつには決められないし、決めない。決めちゃうことで、優先順位が違ってくることもあるし、目的の本質的なところから外れてしまうかもしれないからね。

 

こんな生き方する人、これからもっと出てくると思う。

そして、人も世界も、もっと自由になる。

 

少なくとも、私はそんな妄想をまいにちしてる。

それが、何かに反対したり、人を批判したりするより、本当に自分が作りたい世界を作るための一番の近道だと教えてもらったから。

 

ほら、ジョン・レノンの歌にもあるじゃん。

Imagine 想像してごらんよ、ってね。

 

動かされる快感

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ひとりの金融マンの英国人が、ある日、職業を変えようと思った。もうこれ以上、人間を数字だけで認識する世界にいたくないと思ったと言う。

 

彼が選んだビジネスは、牡蠣。20年経って、その英国人はロサンゼルスのブレントウッドという高級住民街のファーマーズマーケットに立って、牡蠣を売っていた。

 

彼のストーリーを聞いたのは、その日が二回目。 一回目は、私達の住んでいる町にある、日系マーケットの外にあるテーブルで。そして、二回目は、そこから30分以上かかるブレントウッドへ。

そして、そこで、翌日、彼の住んでいる町へ行くと約束した。

 動かされる快感を楽しみたい。

 

 

シェアエコノミー症候群!日本のわけぇもの達 ①エアビの「るってぃ」

自由の女神も泣いている@トランプショック

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 さっき、LAに帰ってきたばかりなんすけど。

 帰ったら、アメリカがトランプ王国になってて。

 もうビックリするやら。何か嫌な予感が当たっちゃったなというか。   

 3週間の旅(長過ぎ。次からは二週間以内にしよう)

 最終日は、バンコクー上海-ロサンゼルスのフライトを終えたところに、

 いきなり、トランプが大統領になったショック。

 アメリカ、やばいわー。

 8年前に、オバマ大統領が選ばれた時は、

 アメリカ、すごいわー。

 ってね、黒人のコミュニティの映像見ながら、涙ぐんだものでしたが。

 

 世界って、激変するのねー。リーダー変わるだけで。(あまり変わらないのは日本だけ?)

 タイでは、私が出発する前に、国王様がお亡くなりになって、町が黒一色だったし。

 いたるところに、この方の写真が飾られておりました。

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 とりわけ、この写真が私は好きだったので、記念に、ここに貼っておきます。(あんまりこの記事とは関係ないけど)

 

 さて。

 ここで、周囲と一緒になって、これからのアメリカと世界を憂えてみるという選択もないことはない。なんせ、世紀の一大イベントだったのだし、そこに便乗するのも楽しいかもと思いつつ、いや、べつにそこで、自分が意見言ったって、他の人たちとそれほど変わることもないし、それは、大統領選を追い続けた人たちにお任せすることにして。

 それより、日本、タイ、上海と回ってきたホカホカのうちに、シェアしたいことを、書き留めることにしようっと。時差ぼけバリバリで、全然、眠気が来る気配もなし。こういう時に、書くネタとして選ぶのは、やっぱ、出会った人たちのことかな。出会えた感謝も込めて。ということで、続くかどうかはわからないけど、

 

シリーズ「日本のわけぇもの達」。

 

 今回も、出会った若者の多くは、閉塞感あふれると言われる日本の中で、それぞれ、一生懸命、何かに挑戦していて、その行動力は、やっぱ、どっか「バカ」じゃないと出来ないよね、って思う。バカになって、エイッてさ、一歩飛び出す勇気。そういうの見てると、自分も、もっとバカになろうって思えてくる。(え?それ以上なれないって?)そんで、最初は、「日本のバカモノ達」シリーズと書いた。

 

が、途中で変わって、「わけぇもの達」に。何でかっていうと、私が出会う若者達は、みーんな、なんらかの形で、シェアエコノミーに関わってるんだよね。で、その仕組みや、コンセプトを、誰よりも体や直感でわかってる。そんな気がする。だから、彼らの動きは、決して、自分だけが儲けるというのがモチベーションになってない。わける=シェアで、わけぇもの。ちょい、苦しいか。許せ。

 

そんなシェアエコノミー症候群のわけぇものシリーズ、やっぱりトップバッターは、この人。

 

るってぃ。本名、山口塁。

 

 日本では、Airbnb(こっちでは英語読みして、エアービーエンビー)を、「エアビ」と省略して言う人が多く、「何、それ?エアロビのお姉さんみたい」なので、私は、自分で話す時は使いません。でも、るってぃを枕詞つきで呼ぶには、「エアビのるってぃ」が便利。そのくらい、今、彼は、Airbnb業界で、だんだん名前が売れてきてて、もうあっちこっちで暴れてる模様。

 

 最近、発見した暴れている様子、その一。

 これ、ちょうど、私がタイに行ってきたばかりで、タイでゲストハウスしてる友達も使ってるサイトがアゴダだったので、アゴダのことを知らなかった私にはタイムリーな記事。ってことで、しっかり宣伝してるじゃんよぉ!にくいねー、あんちゃん。

 注:このチャラさは、本人に会ってもそのまんま。演出っぽくしてるけど、そのまんま。

 

 るってぃは、Airbnbのサイトを、知り合いと立ち上げ、Airbnbのブログを書いてる。私は、5年前に、Airbnbを始めて、なかなか日本で広がっていかないので、「海外のAirbnbの情報を日本語で紹介したり、仲介業するサイトとかがあればいいのに」と思っているところで、るってぃのやってるエアログというのを探し当てた。まだ、その時は、情報量も少なくて、るってぃのキャラも表に出てなかったけど、6月から参加した八木仁平くんという若いにーちゃんのやってる「ブログカレッジ」というのに入ってみたら、そこにるってぃがいた。

 

 「あ、あのサイトやってる子かも!」

 

 そのブログカレッジには、すでに、自分のブログを持っていて、プロブロガーを目指す若者もたくさんいて、初心者もたくさんいて、でも、見渡しても、私のようなオバハンはほとんどいなくて、発言していいものかどうか、どういうキャラでいけばいいのか、戸惑ううちに、日が過ぎていき、ほとんど幽霊状態の中で、るってぃと、あと数名のブロガーには、ちょっと繋がることが出来るかもと思いつつ、見ていたところ、るってぃが、ロサンゼルスで開催されるAirbnbのコンベンションに来ることがわかった。

 

 しかも、それ、クラウドファンディングで、資金集めてるし。笑

 やるじゃん、るってぃ。

 

 その前に、君、北海道の夕張かどっかに行って、7万円入った財布落としたのも、クラウドファンディングで、穴埋めしてたよね? ホント。名前をノリでつけられただけあって、ノリがいい。

 

 でもね、るってぃの偉いとこは、Airbnbとか、ブログをやってるだけあるなあと思うのだけど、それをね、ちゃんとシェアしてるとこなんだよ!

rutty07.com

 

そんなノリだけのようなるってぃだけど、会ってみたいなあって思ったのは、

彼の個人ブログのプロフィールを読んだ時。

 

これがなかなか読ませるんだなー。

rutty07.com

               ↑

        読む時間のある人は読んでね!

 

知ってる人は知ってるけど、私は、何故か昔からダンスに縁があって、ダンスを見るのが大好き!だから、このるってぃのブログの、ダンスの部分で、3回くらいもらい泣きしました、はい。

 

プロフィール、ごくストレートな表現。

こんなふうに、行動をしていくことが出来るのも、やっぱり、自分に正直なんだなと思う。自分のことを大切にしてないと、こういう行動ってなかなか出来ないから。

 

これ読んで、自分のブログも、プロフィールをちゃんと書かなくちゃなあと思って、まだ書いてないんだけど。(ダメじゃん!) 自分史アドバイザーという資格をいただいているのに、恥ずかしい話でございます。

 

小さい時の様子とか、お母さんとの会話とか、るってぃは、ホントにのびのび育ったんだね。 

当たり前のように、地方で育った男の子が、成長していく様子が読み取れて、いいんです。

るってぃの成長に従って、思考の流れや世界観が変わっていく。

それは、ダンスに対しての気持ちや行動もだし、ニューヨークのダンス留学から戻ってきて、日本で、Airbnbを始めてからも同じだ。

 

るってぃは、一緒にエアログを立ち上げた相棒Airbnbを楽しんでやりながら、いろんなことに関わり始める。

 

おっと、その前に、Airbnbって何って人も、多分いるかもなので、これも、エアログからの記事を参考にしてもらおう。

airlog.jp

 

 偏差値35の高校生じゃなくても、もしかしたら、トランプの支持者の中にも、わからない人、いっぱいいると思うよ~。

 

 大統領選、このるってぃの紹介記事と関係なさそうで、実は、ここにAirbnbが出てくるところから、ちょっと関連づけることが出来る。

 

 Airbnbは、11月から、Airbnbのホストに向けて、差別を撤廃しようという呼びかけをしている。それは、人種差別も含めてね。今回の大統領選で、焦点になったことのひとつが、移民の問題だったんだけど、Airbnbのスタンスって、中東やメキシコ人たちを差別するトランプとは、相反するものだったんだよね。

 

 実はるってぃ、明日からロサンゼルス入り!うちに二泊の予定です!

 るってぃと話してみたい人、ぜひ、連絡してください!

 Airbnbを始めたいとか、利用したいという人も!

 

 チャラそうだけど、根がまじめで、知らないとこで、いっぱい努力してるなあ、見習いたいとこがたくさんある、日本のわけぇもの!

 

 るってぃ、待ってるよー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

瞑想ダンスと子泣き爺

感情は味わうためにある@恐怖の一日

 

 今日、Facebookと、LAの日本コミュニティのローカル情報サイト「びびなび」に、9月3日の自分史セミナーの告知を出した。なかなか手がつけられなくて、のびのびになっていたのを、エイヤッ!と片付けたので、「スッキリー!」のはずが、スッキリどころか。。。

 

コワイ!

 

 な、何が?

 

 突然、襲ってきた自分の感情に戸惑う、乙女のフリするアラフィフひとり。

 

 山口百恵が歌いだす。

 怖いわ、怖いわ、こわぁいわー♪

 さすが、出てくるフレーズが70年代。

 

 セミナーやること自体がコワイのかなぁ?それとも集客出来なかったらどうしようっていうコワサなのかなぁ?と考えながら、別の仕事のやり取りをネットでする。

 

 今日は、朝のベッドメイキング以外は、デスクワークという珍しい日。

 基本、肉体労働者の私には、最近、デスクワークを、如何に健全にこなすかが課題。

 

じっと座っていると、「コワイ」は、まるで子泣き爺のように、背中に張り付いて離れない。

 

 重いな、爺。

 

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 drawn by Shigeru Mizuki

 

 何がコワイのかわからないまま、日は沈む。

 

 今年の夏は、何故か短期のゲストが多く、ほぼフルタイムでAirbnbチャノマハウスの女将業の毎日。今日の最後のゲストがなかなか来ないので、チェックインのイストラクションだけメッセージで送って、雅代さんのダンスのクラスに行く。もちろん、子泣き爺も一緒である。

 

 レドンドビーチまで、PCHを車で10分。

 月曜日の夜、8時15分から、ハモサビーチで、雅代さんが教えるダンスクラス。今日は、雅代さんのダンス友達がインストラクター。でも、基本は一緒の踊る瞑想。とてもステキな場所で、リラックスして踊るには、最適のスタジオ。

 

 到着すると、雅代さんが、いつもの笑顔でハグしてくれる。子泣き爺は、この時は、少し身を潜める。

 まずは、横になって、静かに流れてくる音楽と一緒に、インストラクターの言葉に耳を傾けながら、自分の体の声にも、五感を澄ましてみる。ヨガもそうだけど、このインストラクターの英語を聞く練習って、とても勉強になるんだよ。耳障りのよい英語の単語と、催眠術のような言葉のセセラギ。

 

 だんだん、気分が瞑想モードになってきたところで、

 

 来たよ。

 

 ほら、こいつだ。

 

 ヒタヒタと、「怖い」が。

 

 (この時点で、コワイは、「恐い」じゃなくて、「怖い」と判明)

 

 気づかれないように、うつ伏せになって、子泣き爺を、レスリングのように、押さえ込む。

 「おい、何で、ここにいるんだよッ!」とか、心でつぶやきながら、この「怖い」感情を観察してみる。

 

 しばらく、黙って、観察していると、面白いことに気がついた。

 

 ねえ、この怖いって感情、久しぶりじゃない?

 

 そうそう、この感じ、しばらくなかったよねー?

 

 このジワジワと来る感じ、懐かしいかもぉ~。

 

 まるで、双子の姉妹が、心の観客席にいるみたいに、会話が続く。

 双子の姉妹は、淡い色のお揃いのワンピースを着て、私の中の「怖い」を観察している。 

 二人の腕の中には、フレーバーの違うポテトチップスが座っていて、時々、お互いのチップの袋に手を突っ込みあっている。今日の「感情劇場」の出来上がりである。

   (今度、時間のある時に、双子の姉妹、「コワイ」観察会のイラスト描こう)

 

 子泣き爺が、その双子に気がついて、肩越しに振り返る。

 双子の姉妹が、子泣き爺に、観客席から手を振っている。

 「久しぶり~」みたいな感じで。

 

 人生とは、それを感じる人間にとっては悲劇だが、

 考える人間にとっては、喜劇である。

 

 と、フランスのモラリスト、ラ・ブリュリエールが言ったそうな。

 小学生の頃から愛読していた名言集にも載っていた。

 

 こうして、感情を舞台に乗せて、観察者を作ると、人生は、かなり喜劇になる。

 私の場合、その劇場に登場する人物が、アニメや漫画のキャラクターになるところがミソであるが、彼らのおかげで、人生、かなり乗り越えられてきてる。

 

 今日は、子泣き爺なんだぁ~。

 

 ちょっと得した気分になっちゃうわ。

 

 いやーん、水木先生思い出しちゃう (涙)

 

 会いたかったわ、お亡くなりになる前に、水木センセ。

 

 心の劇場、二人だけの観客、双子の姉妹は、子泣き爺に萌えている。

 

 名言といえば、今日のHisty通信に、確か、恐怖についての名言があったような。。。

 

 今回、私がアドバイザー認定講座を受けるきっかけになった、自分史活用推進協議会の創設者の高橋さんがひっそり運営している「Histy」(ヒスティと読みます。音からしてひっそり感が漂う)の「Histy通信」。全く、私は利用していないのに、未だに解除せずに読んでいるのは、このメルマガのコンテンツである、今日の名言が、時々、目に留まるからである。

 

 あった。

 今日の名言に、こんなことが書いてあった。

 

 「恐怖と勇気がどんなに近くに共存しているかは、敵に向かって突進する者が一番よく知っているであろう。」ークリスティアン・モルゲンシュテルン(詩人・著作家)

 

 そうだ、これは挑戦する怖さなのだわ。

 

 コワイ、放置プレイ決定。

 

 怖がってる自分っていうのは、勇気のある証拠。

 

 そう考えると、これまでの人生で、この「コワイ」を随分味方につけてきた。

 

鉄と土と川と海と、ひたすら続く道の冒険。 

 小学生の時、ひとりで初めて汽車(国鉄時代。電車とは誰も呼ばなかった時代)に乗って大畠あたりまで行った。(初キセル!同じ切符で、改札出ずに、行って帰ってきた!)

 

 ドキドキ・・・ハラハラ・・・

 

 弟と、近所のあっこちゃんを連れて、岩国まで子供だけで出る。

 小学1年か2年の時。田舎の子にしては、上出来な冒険。

 が、間違って錦帯橋周りに乗ってしまい、計算していた運賃よりずっと高くついた。

 お姉ちゃん、バス代足りないかもしれなくて、ハラハラの巻だった。

 

 藤仙峡へ、近所の聖子とヒロくんと登る。

 この間、40年ぶりくらいに聖子に会ったら、あの日、実は捜索願いが出されていたという。うちの親は全然心配してなかったと記憶する。帰り道、にわか雨が降ってきて、基地の外人が登ってきて、叫びながら逃げた。何故、逃げる?笑

 

 道は未知。そして無限に続く。と信じて走り出した頃。

 大島まで自転車でひとりで行く。途中でパンクしたり、迷子になったらどうするんだ!と考えたかどうかは不明だが、海があるから大丈夫!と、自転車をひたすら漕いだ。

 

 山は深い。どこまでも深い。道がない分、もっと深いを知る。

 裏山の頂上近くまで登る。尾根を初めて歩く。この時は、兄ちゃんたちと一緒だったかもしれないが、多分、冒険好きは、この小さい頃の山歩きに源がある。

 

 という、田舎の子らしい小学生の冒険時代の後、中学からは、

 

 米軍基地に、兵隊をひっかけて入る。世界への扉。

 5月5日のフレンドシップデー以外に、基地に入ろうと思うと、米軍の兵隊と仲良くなり、中に入るという手があった。後に、米軍のランクによって、ゲートでの手続きがいらないということも発覚し、兵隊を見分けることを覚える。911や最近のテロの後では、すでに通用しない手である。ちなみに、県外や市外から兵隊目当てに来る女の子たちと違い、私は、基地に入ることだけが目的だったので、自分を女の子だと思っていなかったこの時代、勘違いした兵隊に、残念な思いをさせたことも何度かあった。

 が、この時代に、英語に対する壁がなくなっていったのは確かだ。ある日、よく遊んでいた兵隊二人が、私のジョークで笑っている時に言った。

 「日本の女の子と一緒にいる時、つたない日本語と英語で何とか笑わせようとするのは、俺らの方なのに、ヒロミといると、俺らが笑ってる。変だ、こいつ!」と言われたことで調子に乗って、しゃべるようになった。

 

 夜の川下(米軍基地の周辺)の酒場に出入りする。店の人と仲良くなる。どこでもドア。

 ある日、中学のセーラー服で、飲み屋のカウンターに座っている自分を発見する。

 

 傷痍兵の車椅子のおじちゃんと仲良くなる。学校の外の面白さ。

 

  

 

 この辺でも、「コワイ」はあった。未知との遭遇は、いつも危険な匂いがする。

 

 言葉が道を作る。

 英語を話すのも、そのひとつだったかも。

 黒人とか、人種の違う人たちと話すことも「コワイ」ことだった。

 でも、そのコワイは、経験を通して越えるべき「コワイ」だということを、

 多分、度重なるコワイ経験の中で知った。コワイを理由に避けて通ってはいけない。

 

 その後も、イベントやったり、いろんなことをして、思い切り失敗したりもして、

 過去の失敗からの「コワイ」の記憶のせいで、挑戦することが出来なくなったこともある。

 

 今だって、まだまだ自分にブレーキかけてることがあるに違いない。

 

 今回、この自分史セミナーをやると決めたことで、この「コワイ」感覚、

 思い出せてよかった。

 

 さて、感情劇場が妄想モードで展開する中、スタジオは 

 

 踊る瞑想の音楽は、だんだん、激しくなっていく。

 

 いつの間にか、私は、子泣き爺を振り落とし、隠れている子泣き爺を引っ張り出し、

 「コワイ」と一緒にフロアを飛び跳ねる。

 

 ああ、コワイ。本当にコワイ。

 久しぶりに会えてよかった。

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これ、高野文子さんの「おともだち」からですが、このバージョンで、子泣き爺を描きたいです。